5.高井進さん「富山の近代化」

今日の近代社会とそれ以前の社会との大きな違いは、(完全とはいえないが、)今日の社会では人間が人間による支配から解放されていて、以前の社会では(歴史的に強弱の違いはあるが)人間による束縛が制度的に存在したことであろう。

越中の人々は明治に先立つ江戸時代の3世紀近い間、加賀藩と、江戸幕府という、二重表の支配のもと、完全には自由に行動できなかった。

19世紀に入り、(主として江戸や長崎の蘭学者らを中心とした反封建的な合理主義の主張の中に、)徐々にではあるが近代精神の萌芽が感ぜられるものの、人間平等の思想が北陸の地に根付くにはかなりの歳月を要した。

この主張を富山に運んだのは、皮肉にも(復古主義による)明治維新の東征軍であった。越中一円が越後攻めの拠点となり一部農民が長岡戦争に参戦するなかで、国民的自覚が生まれ、やがて新政府による徴兵令の発布は四民平等の前提をとったため、ようやく国民は平等主義を権利と義務のなかに感得することとなった。

その後、(土佐の立志社が主張した)自由民権の思想は明治10年代に入り越中にも大きなうねりを招来し、やがて越中の人士も全国的な民選議院設立要求の流れに合わせることになった。

その後、明治23年に初の国会が開かれ、日本は専制政治から議会制民主主義への第一歩を踏み出すことになる。

なお、この間、明治16年には、越中が念願の石川県から分離独立し、ようやく加賀による支配から解放されることになった。

明治の到来によって制度の上で人間平等が保障されたとはいえ、現実には、万人平等というにはほど遠いものであった。当時の四民平等は、「国民負担」すなわち強力な近代国家を形成していくための義務面における意識改革を促す点で必要ではあっても、「権利面」すなわち人権や物質面で完全な平等を保障するものではなかった。

明治6年の徴兵令の同年に発布された地租改正条例は、農業社会における土地と税制に関する重要法令であり、大部分の国民の生活を規定するものとなったが、これによる負担は極めて重いものであった。

しかし、税負担以上に重くのしかかったのは、富山の自然が生み出す災害や病害であった。

越中は、古来、美しい自然に恵まれ、穏やかな天候であれば地の生み出す富には莫大なものがあった。だが、いったん自然が牙をむくと、(富はおろか)人名をも奪い去った。常願寺川をはじめとした越中の百川と呼ばれる大小の河川の氾濫は、千戸以上を水没させた洪水だけでも明治期だけでも86回に及んだ。また、病害は、抵抗力のない幼児を襲い、低い医療知識と貧困にあえぐ庶民層に厳しくのしかかった。

こうした、自然の不条理な人間支配からの解放には、物質的な豊かさと科学技術の国民的習得が必要だった。

(以下、略。北日本新聞社「とやま近代化ものがたり」より抜粋&一部加工)

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