35.小谷瑛輔さん(文学作品を通してみる富山)

近代以前から全国的に知られていた富山のイメージといえば、なんと言っても越中富山の薬売りだろう。文学史に残る有名な作品にも富山の薬売りは描かれている。隣県石川の金沢市出身の作家、泉鏡花の代表作「高野聖」である。

この物語は、男を誘惑して肉体関係を持った相手を獣に変えてしまうという女に、旅僧の宗朝が出会うというのが筋だ。ただし、そこに出てくる富山の薬売りは、残念ながらあまり好印象の人物ではない。登場した瞬間から「けたいの悪い、ねじねじした厭なわかいもので」と紹介され、最終的にはスケベ心から女と関係を持ち、馬に変えられてしまっていたことがわかる。

富山の薬売りはなせそんな描き方をされてしまったのだろうか。その理由については、鏡花が「ブルジョワ的卑俗、功利の化身のような富山の売薬を憎んだため」ではないかというのが通説のようだ。売薬は、もちろん人の助けになる仕事でもあるのだが、したたかな商売で経済的に成功していることが妬まれることもあった。北陸三県の県民性を揶揄する俗諺に「越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師」というものがあるが、富山の売薬も必ずしも好意的にのみ捉えられていたわけではないのである。

鏡花は、薬売りを登場させるだけでなく、富山を舞台とした作品をいくつか書いている。たとえば「蛇くひ」(1898)という短編。これは、富山に出没する物乞いの集団の話である。彼らは、施しを拒否する家の前に集合し、蛇を生きたまま食いちぎって畳や敷居に吐き出して餓えをアピールし、施しを強要する。読者に嫌悪感を与える異様な光景である。翌年に発表された「黒百合」(1899)も富山が舞台になっている。これは「蛇くひ」に比べると美しい話だが、戦国時代の富山城主の佐々成政が、愛妾に密通の疑いをかけて殺し、その呪いによって滅亡の運命を辿ったという陰惨な「黒百合伝説」を下敷とし、その呪いが変奏されるような物語である。

鏡花にとっての富山の印象は、若い頃に富山に滞在した経験からも形成されているが、それだけではないらしい。鏡花は、江戸時代の北陸の怪異譚を集めた「加越能三州奇談」を愛読していて、その印象も持っていたことが分かっている。いずれにしても、富山といえば魔所、というようなイメージが濃厚となっていると言えるだろう。

鏡花に限らないが、富山の魔所イメージは、たびたび氾濫を起こして流域に壊滅的な被害を与えた暴れ川や、そうした川の源泉でもある奥深い山の存在感に由来するところが多いようだ。地獄と浄土を併せ持つ立山への信仰をはじめ、山は異界として畏れられていた。古くから鬼や魔の住み処と言われ、源平の合戦で平家群が大量の死者を出した戦いでも有名な倶利伽羅峠もある。富山の平野部はそうした異界と接する地域であった。

日本の山岳文学の第一人者とされる田部重治は富山で生まれ、幼少期から異界への興味に接しながら育った過程で山の世界に魅せられていった。彼の最初の単著「日本アルプスと秩父巡禮」(1919)の冒頭の章、「薬師寺と有夆」では、山奥にある有夆という地域について幼少時から「全く絶海の孤島にある未開の異人種の住んでいるところ」「平家の遺族がそこにいる」といった伝説を聞いて、いつか訪れたいという気持ちを高めていったことが、彼の登山人生の出発点にあったことを伝えている。未知の不思議な存在の棲む場所としての印象が、彼を山岳文学へと導いていったのである。

山中に「未開の異人種」が住んでいるというような想像は、田部のような富山育ちの作家だけではなく、県外の作家が富山を念頭に描く世界にも見られる。

たとえば萩原朔太郎の小説の代表作「猫町」(1935)。地名が具体的には出て来ないため、富山文学として言及されることは少ないようだが、この小説では「北越地方のKという温泉」やその近くのU町が舞台になっており、U町は宇奈月または魚津がモデルと思われる。その先の黒薙温泉の方面には、化け猫が住み着いていたという言い伝えのある「猫又」という地名もあり、朔太郎がこれらの情報を踏まえて書いた小説だとされている。

この作品で中心となる異界の話は、麻薬による幻想なのか現実なのか区別しがたいように書かれているのだが、その幻想的な世界に入っていく前の、主人公がまだ冷静さを見せている段階でこの地域のことは次のように語られている。

私は空に浮かんだ雲を見ながらこの地方の山中に伝説している古い口碑のことを考えていた。概して文化の程度が低く原始民族のタブーと迷信に包まれているこの地方には、実際色々な伝説や口碑があり、今でもなお多数の人々は真面目に信じているのである。現に私の宿の女中や近所の村から湯治に来て居る人たちは、一種の恐怖と嫌悪の感情とで私に様々なことを話してくれた。ある部族の住民は犬神に憑かれており、ある部族の住民は猫神に憑かれている。犬神に憑かれた者は肉ばかりを食ひ、猫神に憑かれた者は魚ばかり食って生活している。そうした特異な部落を称して、この辺の人々は「憑き村」と呼び一切の交際を避けて忌み嫌った。「憑き村」の人々は年に一度、月のない闇夜を選んで祭礼をする。その祭りの様子は、彼等以外の普通の人には全く見えない。稀に見てきた人があっても何故か口をつぐんで話をしない。彼等は特殊の魔力を有し、所因の解らぬ莫大の財産を隠している、など。(以下、略)

(大学的富山ガイド、富山地域づくり研究会)

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