47.恋は大袈裟(谷川俊太郎さん)

初め私は母親のからだの中にいた。私のからだと母親のからだは溶け合っていた。その快さはおそらく今も消え去ることのない意識下の記憶として、私のうちに残っている。私は母親のからだから出て、私自身のからだをもったが、そのからだはともすると、母親のからだの中へ帰りたがった。私は母に甘えた。

母はひとりの人間であるとともに、自然そのものでもあった。陽光に輝くなだらかな丘を見るとき、なまぐさい海へ歩み入るとき、肌のうぶげにそよ風を感ずるとき、はだしの足でぬかるみをかきまわすとき、私は満たされることのない憧れと渇き、畏れと親しみのまざりあった気持ちに、快楽と同時に苦痛を味わった。

母と一体になりたいという欲望は、自然に溶け込みたいという欲望と区別できなかった。

だがやがて母親は、限りない自然としてよりも死すべきひとりの人間として、私の前に立ちふさがるようになってくる。それは私に人間社会のしきたりを教え、自然の秩序とは異なる人間の秩序の中に私を組み込もうとする。私は抵抗し、抑圧し、受け入れる。私のからだが母親のからだから出たように、私の心も母親の心から別れ始める。そして私は母親に代わる存在を求める。

恋とは私のからだが、もうひとつのからだに出会うことに他ならない。自然と違って人間はからだだけではないから、からだと言うとき、そのからだの宿している心を無視できないのは勿論だが、心とからだはただことばの上で区別されるだけで、本来はひとつのものだ。しかしまたひとりひとりに独自な心は、人間特有のものであり、その心を支配し、それに支配される万人に共通なからだは、人間を超えた自然に属している。その矛盾を生きるのが人間であるとも言えよう。

心とからだの矛盾に満ちた関係は、人間と自然の矛盾に満ちた関係から生まれた。矛盾を生きることで、調和を見出そうとする欲求も両者に共通なものであるとすれば、恋もまた、人間同士の戦いであるとともに、人間と自然との戦いのひとつと見ることもできる。そこでの平和がいかに得難いものであるかは、誰もが知っている。

恋は否応なしに自分を他人とかかわらせるが、自分の背後にも他人の背後にも人間を越えた自然が隠れている。恋する者はいつも相手のむこうに、相手を超えたなにものかを感じとっている。その奥行きが目をくらませる。だがそのくらんだ目が、ふだんは見えぬものを見る。世界は新しい文脈の中でよみがえる。それが散文よりも詩歌にふさわしい高まりを見せるのは当然だ。

母親から離れた私のからだ・心が、母親のではないもうひとつのからだ・心に目覚めたのは、いったいいつごろのことだったろう。得体の知れぬ欲望が、一方で私を世界美術全集にのっている大理石の裸体の映像や、幼友達とのお医者さんごっこにむかわせ、他方でひとりの小学校の同級生の女の子の、他の誰のものでもないひとつの顔にむかわせた。恋は性に支えられていたが、同時に性を越えようとするものでもあった。

恋は宇宙と一体になりたいという、心とからだぐるみの人間の最も深いところにある欲望の現れなのか。そうであるとすれば、からだの欲望がそのまま宗教に通じているとしても不思議ではない。私を魅了するひとつの顔に私が見ていたものこそ、「詩」と呼んでいいものだったかもしれない。その顔がときに心とは似ても似つかないものだと知るまでに、どんな長い時間が必要だったとしても。

目が顔に出会う、からだがからだに出会う、心が心に出会う、ことばにすれば三つの出会いとも思われかねない出会いというものも、実はひとつだ。現世で手に触れることのできるものはからだだけであるとしても、ことばをもつことのできた人の心は、この世ならぬものまでを日常のなかにまざまざと描き出す。人間は他者のからだ・心を媒介にして、自らの死を超えて宇宙に恋することができる。どんなに洗練された恋愛心理の奥にも、荒々しい自然がひそんでいるのを忘れることはできない。

私の初めての恋の詩のひとつに「……私はひとを呼ぶ/すると世界がふり向く/そして私がいなくなる」という行がある。他のどんな人間関係にもまして恋はエゴイズムをあらわにするが、同時にそれは個を超えて人を限りない世界へと導く。その喜びと寄る辺なさに恋の味わいがある。人は経験によって、また想像力の限りをつくして、それをことばにしてきた。

ひとつのからだ・心は、もうひとつのからだ・心なしでは生きていけない。その煩わしさに堪えかねて、昔から多くの人々が荒野に逃れ、寺院に隠れたが、幸いなことにそんな努力も人類を根絶やしにするほどの力は持てなかった。

恋は大袈裟なものだが、誰もそれを笑うことはできない。

(1985.10作品社「恋歌1」はしがき)