26.大巻裕子さん(千保川つれづれ)

水が匂っている。雨が近いのかもしれない。川面は、晩秋の弱い光に縮緬皺を畳む。私は、橋の真ん中まできて、川の蛇行に目を馳せる。この中島橋(横田町から中島橋に架かる橋)から川の蛇行を一望できるはずもないが、なぜかこの辺りに佇み背景に目を這わせていると、遠く山間を越え野を抜け町筋を縫って海に注ぐ川の生涯が、人の生のごとくに胸を染め上げてくる。

かつてこの川を遡って町々が栄えたころ、この川沿いには心温まる町の名がひしめき合っていた。その町に一歩踏み込んだだけで、人々の暮らしむきの香りが肌を刺したものだ。旅籠町、油町、鉄砲町、袋町、桶屋町、風呂屋町、桧物屋町、大鋸屋町、神主町、大工町……と、数えあげればきりがない。この町名がいつなくなったのか、この界隈を通るたびに、佇みたくなるのは私だけではないだろう。

畳屋をしていた父の使いで初めて集金に出た記憶がよみがえる。油町の傘屋だった。8人兄弟の家でその何番目かの男の子が中学の同級生だった。姉が嫁ぐらしかった。父が臥せり母が看病していて人手がなく、私は渋々でかけた。路地を曲がったとたん、路地一面の蛇の目傘が目を射た。路地はほとんどが傘屋で、年中油紙の匂いでむせ返っていた。傘と傘の間に人の視線を感じて足を止めた場所がその子の家だった。その子は私を見つけると一目散に傘の間を縫い走り去った。

先日、30何年振りかの同窓会が川沿いの料亭であった。そこでその子の死を聞いた。壮年の死であった。傘の行列が不意に蘇り町の香りが蘇った。去年の旧盆の宵、私は娘とこの川の灯籠流しを見に来た。娘は半年後に稼ぐ身であった。その時、娘に何を託したかったのか。蘇るものを共有したかったのか。

27年前、私はこの川沿いの産院で娘を産んだ。21歳であった。悪阻がひどく入院し窓から川と橋のたもとの柳の木ばかり見ていた。その柳の木は護岸工事で伐られた。

人に壮年の時があるように、川にもそんな時がある気がする。もしあるとすれば、橋のたもとに柳の木があって七夕流しがあって、川沿いに並ぶ染め工場が染め上げた布を清い流れに浮かばせていた頃かもしれない。

さだまさしの歌う「精霊流し」の曲が流れる中を闇は灯を流す。灯は川面一面を幽玄の中へ誘い精霊に息を吹き込む。10数年前、町の活性化のために作ったのだという。今年、私は灯籠流しを見なかった。来年はどうかと、ゆるい川の流れに目を馳せていると、消えたものや生まれたものが次々にあぶりだされてきて、私はその一場面一場面に、死んだ父や母や友を重ねる。が、それらはいつも影絵のようにおぼろだ。

目を上げると、対岸の鋳物の街並みが洒落て見えた。黒煙を吐くえんとつも、煤だらけの黒い屋根も、臭気に染まる格子戸もなく、晒したように白い街並みが続くばかりであった。街並みで鐘が鳴り始めた。工場の終業時よ鐘であろうか。私は、鳴り響く鐘の音に誘われるように二枚橋の方へ歩いて行った。歩きながら川の流れに連れ添う自分を見ていた。

(1995年「とっておきの富山」大巻さんは主婦)

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