29.山田豪さん(方言は今も生きている)

本稿では「富山藩と売薬業と方言」について一つの提案をしています。冒頭ではありますが、この提案をきっかけに、このテーマについてみなさんの間でお話を深められることを願うものです。

最初に、II章に掲載しています「略年表」についてです。この「はじめに」とともに、富山藩と売薬業を中心にした地域史「旧富山藩領に関わる略年表」に目を通していただければよいと思います。なぜそれを載せたかです。歴史にはその地域の誇りと隠したいものが見えるからです。

これは、今日格段に肥大した富山市と、当時は越中の一部の狭い領域であった富山町とその周辺の地域が、どのようにその歴史を刻んできたかを確認するためのものです。ほとんどの人たちは、その領民のあり様がきわめて濃いものであったと思われるのですが、その経緯がどのようであったかについては、空白なのではないでしょうか。

富山藩の歴史については筆者も詳しくはないのですが、取りあえずはここで、方言についての本書が可能になった経緯を書いてみます。

最初に指摘するのもなんですが、それは著者の付き合いの範囲において「富山にちゃなんもない」とよくいわれることにかかわるわけです。平成の時代が終わってもそんな風に思います。

しかし、平成に入ったごく最初の頃からでしょうか、富山駅前が急に少し綺麗に整備されたようです。その後、少しずつというか、徐々に市役所あたりやお城やその周り、総曲輪通りの周りやその周辺のいわゆる街中が綺麗にされてきたように思います。それでも、そのような小綺麗な街の風景を含めて「なんもないなぁ」と思うのです。街建てが富山城を意識させるようにつくられていないせいで、街の空気を引き締める富山城の存在感が消えているからかもしれません。

お城のなかの公園ですか、その中も本当にゆっくりゆっくりですが、途中休みながら整えられてきました。芝生なども植えられるようになるまでには、多分15年以上はかかったように思います。そんなことからでしょうか、この街が綺麗に整備され、楽しいことでいつも溢れているから、それでいいんだとする意見も多々あるのです。ですから、方々で「なにもない」と言っちゃいけないと言われた時さえあったのです。

空白感いっぱいの「なんもない」ということは、端的に言えば人と人とをつなぐきっかけになるものがないということなのです。日常的には多くの人たちは、職場に忙しく閉じ込められ、自分の家庭に我を忘れ、閉じ込められているわけです。そのような人たちだからこそ、そんな場から解放されて、互いの人間を意識し、それを見出そうとして付き合うきっかけになるものがないということなんです。

街中は見た目綺麗なようです。でもこの綺麗さの実態は、令和に入って放映されたNHKの30分TV番組で、ある若い女性が富山の街が持つ風景について質問されて「無機質だ!」と述べたのです。その表現はまさにこの「空虚さ」にピタリと当てはまるのです。

この指摘はつまり、この街とそこに住む人たちには「心地よさ」「親しみ」「懐かしさ」が見つからないと訴えていることを意味していると思いました。この街に巨大な影響を与えた先達には、安田善次郎、馬場はる、南日恒太郎がいますが、彼らの存在もこの町にはもう見えないものになっています。そのような人たちへの肌合いの近さを覚えさせるものはないようです。この非在の軽さはどうしてでしょうか。今や表面の「小綺麗さ」しかないのです。引きつけられるものがない。だから、この街にずっと住みたいと思う人たちが少ないのです。

これは、周囲に富山弁が乾いて響き、空白にしか響かないことからも分かるのです。そのような富山弁ですから、引きつけられるものがないのです。であるとすれば、富山のひとたち同士の多くが乾いた方言を話して、それでいいとする自己満足感に閉じ込められているようです。これはみんなが周りのことに互いに無関心なことを示しています。自らにも冷たいし、他の人たちにも冷たいのです。その冷たさは、富山という街並みには、行政が企画して整備した小綺麗さしか見えないというのと同じです。

ですから、その乾いて響く方言を、それぞれの人の努力でどんな風に生き生きとした富山弁にするかがポイントになるのです。そのようにみんなが工夫をし、各々が生きた富山弁を取り戻して生きることを、県外の人たちも、県内人も求めていると思われます。

確かに、富山湾と三つの平野と立山連峰、この三つの一体化し有機的につながりあった姿が、この越中が持つ取り柄なのです。しかし、ただこの魅力だけでは人々をこの地に引き留められません。

またごく最近のことですが、私が駅北の通りを歩いている時に、たまたま私の後ろを歩いていた。ともに、20代でしょうか、2人の女性の間でのやり取りが聞こえてきたのです。「富山市には良いものなんてないとしかいいようがない、環水公園に行っても魅力がない」と。やっぱりそんな見方をしている若者たちもいるのか、と思いました。街並みの小綺麗さに目を奪われていない鋭い感覚の持ち主、そのような人は少ないかもしれませんが、確実にいることに安心したのです。

確かに「なんもない」のには大きく言って2つの側面があるようです。1つは、空襲があって、それももの凄い被害だったから当たり前ですが、そのため歴史的な遺跡に類するものが街中にきわめて乏しいのです。その上、その後の推移の中で、戦災復興記念の像があってもそれを思い出す機会が設けられていないのです。さらには、売薬を誇り、その業に生涯をかけてきた庶民の労苦を思い出させる像とか、薩摩組(売薬業の株仲間。関東組、五畿内組など22組の1つ)などの記念碑が、市民の手で建てられていないからです。

これでは、この街がどんな風に生きてきた市なのかさっぱり分からないのです。さみしい街だな、としみじみ思わされます。心が立ち止まりたくない、癒されるところがないというのです。

そしてもうひとつは、敗戦後の街中のデザインをしてきた人たちがどのような、人たちかは分かりませんが、彼らは恐らく街中に住み、その街を日々行き来する人たちが持つ寂しさや空しさを癒すのではなく、行政組織のトップにいる人たちのみを見て、ただ形よく!と都市デザインがなされてきたことにあるのではないかと思われるのです。

「なにもないちゃ」と言われながらも、しかし富山駅のすぐ前には「安田善次郎像」が建ち、彼の生い立ちを忘れるなとみんなに問いかけています。

(中略)

その出来事は昭和39年4月に大学の学部1年生に入りたての私でしたから、想像すらできなかったものでした。その出来事は、3年生達がリーダーという形で北軽井沢の照月湖畔で1週間にわたって開催され、そこに富山市に高3まで生活していて初めて東京へ出てきた私が参加した夏合宿においておきたのです。

最終日にリーダーが呼んでいるから来るようにと言われたので、リーダーの部屋に行ったわけです。そこには3年生のリーダーが7,8人集まっていました。

そこで聞いた第一声が、「おまえの言葉が悪い!」「どこの言葉だ!」「標準語でしゃべんなきゃダメ」だったのです。

いきなり切り出されても、何が何だかさっぱり分からなかったのです。とにかく私は子どもの頃からしゃべってきたそのままで東京に来てからの4ヶ月もしゃべっていたわけです。

その秋からは私から富山弁は消えました。そうか、私がしゃべっていたのは、富山弁だったんだ!とその時初めて気付かされました。でも内面は、富山弁って何だ!どこが乱暴なのだ!標準語って何だ!そんな問いの繰り返しでいっぱいでした。なんで富山弁をしゃべってはいけないのだと。この問いはその後ずっと続きました。

もう1つは新宿西口のある飲み屋での出来事です。「あなたが今富山の人って聞こえたから聞くんだけど」とまったく見知らぬ脇にいた人からいきなり声をかけられ問いただされたのです。「富山の人って何を聞いても答えないんだよね」「富山ってどこにあるの?と聞いても、あの辺とか金沢のこっちの方とかしか答えてくれないんでね」「富山の人ってどんな人?と聞いても何も答えない」「こんな利害関係のない人を相手にした飲み屋ですら、富山の連中って自分を解放して発散できないんだね!」「どんなところ、富山って?と聞いても何の返事もない」「どうしてあんなに暗いの!」「富山の誰をつかまえて聞いても、あいまいな返事しか来ないんだよ」この出来事も私には衝撃でした。(以下略)

(2020年文芸社)

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