33.萩原大輔さん(佐々成政の悪評を広めたのは前田家か?)

成政ゆかりの旧跡「磯部の一本榎」が富山護国神社の裏手、旧神通川の松川沿いに現在も残る。彼には早百合という寵愛する妾がいた。これを妬む者が、早百合が成政の家臣と不義密通を働いたと讒言したところ、激怒した成政は事の真偽を確かめることなく、早百合と一族もろともを皆殺しにしたという。「磯部の一本榎」は、彼女がその黒髪を枝に括り付けられて吊るし斬りにされたと伝わる悲劇の舞台だ。そして、無実の罪によってこの場所で殺された早百合が成政を呪う悪鬼へと化し、ついには成政を破滅へ追いやったというエピソードは「早百合伝説」と呼ばれている。この逸話は、成政の短慮や残忍さを語るものであり、彼の後に越中を治めた加賀藩(前田家)が、わざと広めたものだと言われてきた。

しかし、そもそも「早百合伝説」を初めて取り上げた歴史資料は何だろうか。調べた限り、堀麦水が江戸時代に著した「三州奇談」とみられる。彼は金沢の俳人で、加賀藩の関係者ではない。また、成政の死から百数十年以上も経ってようやく書き留められたエピソードなのだ。さらには、取るに足らない奇談の一つとして紹介されている点も注意すべきだろう。同書では、側室の名は「さゆり」と平仮名で書かれ、密通した相手も「竹沢某」とあるだけで下の名は明らかでない。しかも、この「三州奇談」は出版されなかったため、あまり巷間には広まらなかった。

結論から述べると、「早百合伝説」の浸透に大きな役割を果たしたのは「絵本太閤記」だと思う。1797-1802年にかけて全84冊で完結した同書は、虚実入り交じる内容を持つ豊臣秀吉の一代記だが、コミカルな挿絵と巧みなストーリーでたちまちベストセラーとなった。じつはこの中で成政が早百合を殺した件も詳しく述べられており、そこでは「早百合」と漢字で記し、「竹沢熊四郎」と下の名も加えるなど伝説の細かな肉付けが進んでいる。

この「絵本太閤記」の大ヒットをうけて同書の挿絵を元にした浮世絵版画が作られ始め、「早百合伝説」に基づいたものも刷られていく。1890年になると、同伝説をテーマにした歌舞伎狂言「富山城雪解清水」が東京の新富座で初演を迎える。成政役は初代市川左団次、早百合役を四代中村福助がつとめ、時のスーパースターが競演する作品の題材に選ばれるほど、世に知られる逸話となっていたのだ。つまり、絵本や浮世絵、歌舞伎など大衆向けのメディアによって流布していったのである。

かたや、前田家側が「早百合伝説」を広めようとした確かな証は見つかっていない。むしろ好ましいイメージを植え付けた面さえ浮かび上がる。例えば、成政が真冬の北アルプス越えという偉業を果たした「さらさら越え」。加賀藩のお抱え医師だった小瀬甫庵が編み1626年に出版された「太閤記」では、織田家への忠義から「さらさら越え」を行ったとして成政を絶賛している。この太閤記は人気を博して版を重ねたことから、「さらさら越え」の壮挙は、ほかならぬ前田家の関係者による著作で世に発信されたといえよう。

このほか、富山の水害を減らすために成政がいたち川の開削を命じた逸話が残る。それを初めて記したのは、加賀藩の支藩である富山藩の藩校で教官を務めた野崎雅明が1815年に著した「肯溝泉達録」だ。よって、同じ前田家の関係者によるものと考えてよい。この書では、成政と利家の経過を説く中で、いたち川の話に言及する。そこから見えてくるのは、領民のために土木インフラを整えようとする成政だ。

にもかかわらず、なぜか前田家が「早百合伝説」を広めたと断じる説は今なお根強い。「佐々と前田」という戦国時代に端を発する「富山と金沢」のライバル意識が、根も葉もない決めつけを招いているのではないかと勘ぐるのは筆者だけではあるまい。

(大学的富山ガイド、富山大学地域づくり研究会)

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