46.倶利伽羅合戦の明暗

平家物語に牛が出なく、源平盛衰記にだけ牛の出てくるのはなぜか。その結論を出す前に、両書の成立を考えておきたい。まず平家物語の書名は原作者がつけたものではないというのが定説。徒然草によると鎌倉前期の後鳥羽天皇の時代に信濃前司行長が作ったといわれる。保元、平治の乱をテーマとした保元・平治物語のように、はじめは6巻からなる年号名をうたった治承物語という書名だったらしい。しかし仁治元(1240)年までには年号の書名より平家の名前をもってよばれるようになる。12世紀末の事件が13世紀初めに書かれ、正保元(1259)年以前までに後帖の2巻が増補され8巻となる。以後9巻から12巻まで増巻となるのは13世紀末か14世紀はじめである。いわゆる鎌倉時代の作品だ。

これに対して源平盛衰記は平家物語の異本の一記録によって集大成した形跡があり、少なくとも平家灌頂巻が独立した後に作られたことが明らかである。ために、写本・異本・流布本・坂本などの諸本があり内容もそれぞれ異なる。文学作品としては平家のものより低いというのが定説。

ところで初期本は鎌倉中期以降、室町中期に及んで作られた形跡が濃厚。諸本はこの時期、あるいはこれらにならって以後に成立するものとみられる。となると平家物語と源平盛衰記の記述は必ずしも一定しない。むしろ盛衰記のほうは、多岐で装飾の多くなる傾向を避けることができない。牛が出現するのはこうした理由に基づくからであろう。

谷底へ転落してゆくにしても、一段の興を添えるため、諸国行脚の琵琶法師の語り部たちが田単将軍火牛戦の話を添えて伝説化し、条々たる糸を弾じたことは想像されていい。義仲が中国の史書から思い立つほどの英雄ならば、京へ駆け上がってからの政治にも目をみはるものがあったことであろう。

平家物語では、平家総数を10万余騎とし、維盛を中心とした主力7万余騎が倶利伽羅峠へ向かい、別働隊は能登の志雄から氷見方面へ迂回することになっている。情報を受けた木曽軍は、能登へ1万騎を向かわせ、4万余りの主力が倶利伽羅へ向かうことになる。これは果たしてどのように考えればよいのであろうか。当時の実情を考える時、一騎に対して徒士立ちの下人や傭兵2-3人から7-8人従うのを通常としている。となると、何万騎というのは実におびただしい人数に膨れ上がる。

伝説というのは、少数より大人数がよいとすると、今となればひいきの引き倒しになる恐れもあろう。倶利伽羅における大合戦はあったとしても、このようになると白髪三千丈の虚数表現があったとしか思われない。

当時における武士団成立の様相を考えてみると、関東から信越のありさまには、植民地的様相があった。一方、蝦夷などの北方征服の軍事基地を固める急進的開発が試みられており、武士団は館を中心とする開拓に余念がなかった。館とは開拓農民のポイントであった。館中心の開拓事業武士団を成立させ成長させた。空閑地を見つけると、国府政庁へ開拓願を出し、家人郎党、下人を集めて開拓団を作り上げた。開拓する適切なところに館を建て、堀をうがち、耕地を広めた。農民たちは開拓された田畑を与えられて住みつき、館を中心としてのいわゆる一家が出来上がるのである。開拓農場は別府の名の呼ばれ、館の主は名主として国府の税所に税を払った。名とは土地のことである。大名とは大きな土地所有者のことである。

このような事情から、農地を保持する自衛のため、館の従者である農民武士団に軍事力を用いさせたのは当然のなりゆきでもあった。関東甲信越に牧場が多かった。当時の戦闘力は騎馬が主体で、良馬を多く用いることが武力の興亡に大きなかかわりをもった。源氏が騎馬戦に巧みであることも以上の理由からであった。

これに対する平氏の主従関係はどうであったか。多くは中央(京都)政府や国府政庁の命令によって徴発され、不本意ながら戦列に加わった、いわば寄せ集めの武士たちであった。

「弓矢を持たない私どもを村人の3/4も徴発するのはもってのほか…」と古典物語が記しているように、寿永2年の春、北陸に義仲征討軍を繰り出す時、例えば南山城(京都府南部)の小さな荘園の住人たちかわ、36人のうち27人も兵士の徴発にかり出されたことに抗議している。

こうした武者農民が平氏10万を唱える大軍の大半だったのが実情である。無下の荒郷一所の主人に一所懸命を賭けた小武士団の団結した義仲軍と、命令一本で大勢だけを引きずった平氏との勝敗は明らかであったのはいうまでもない。

(北陸史23の謎、能坂利雄さん)