27.鶴木義直さん(画家放庵の心をとらえた山吹橋)

格別印象に残る釣橋ではなかった。ありふれた構造形式であることに加え、くすんだ萌黄色の欄干は、とても人目を引くようなものではない。雑木の生い茂る周囲の景観の中に、埋没していると言ってもいいだろう。毎日のようにその姿を眺めていても、気にとめることはなかった。おわら歌の一つを耳にして、橋に対する認識が一変するとは思いもよらなかった。

 ゆらぐ釣橋手に手をとりて渡る井田川オワラ春の風

坂の町と高熊の鉱泉をつなぐ山吹橋、その下を井田川が山あいの雪解け水を集めほとばしる。冬から春への八尾の情景をとらえ、日本画家の小杉放庵が昭和初期に詠んだおわら名歌「八尾四季・春の一番」である。

名歌の誕生をきっかけに、おわらは大きな変化を遂げた。大正期までは平凡な盆踊り歌の一つに過ぎず、野卑とさえ形容されるほどだったが、当時地元で興った文芸運動の中で磨きをかけられるようになった。歌詞だけでなく、伴奏と踊りのすべてが洗練され、優雅さと哀調をもって知られる現在のスタイルが確立した。

山あいの静かな町が、毎年異様な輝きを放つ風の盆の三日間。取材を通じておわらの魅力と歴史の一端をうかがい知るようになると、橋の存在が心の中に少しずつクローズアップされてきた。もちろん風の盆の輝きはさまざまな要素が絡み合って醸成されるものなのだろうが、その源の一つをたどれば、山吹橋に突き当たるのではないだろうか……。放庵の心をとらえた橋への関心が高まり、由来を調べてみたいとの思いが募った。

古老たちの証言をまとめると、橋は約1世紀にわたって人々の往来を見守り続けたことになる。正確な記録は残っていないものの、初代の橋は明治期、鉱泉の経営者が湯治客を呼び込むために架けたとされる。欄干に針金を渡し、路床に板を張っただけの粗末な造りだったらしく、古老たちは幼いころの記憶を呼び起こし、口をそろえる。

「揺れがひどいうえ、いまにも崩れ落ちそうなオンボロ橋。1人で渡るのは怖くてたまらなかった」

老朽化の進んだ橋は昭和30年、廃橋となった旧神通橋を移設し町道に昇格した。70mを超える川幅に対し、廃橋の釣橋は長さが55mしかなかったため、両岸にはコンクリートの橋が継ぎ足されている。当時八尾町建設課の職員だった平野正雄さんは「時代の趨勢に逆行していたが、おわらで有名になっていたため、釣橋にせざるを得なかった」と事情を明かす。

年号は平成に変わり、橋の欄干には電球が飾られてライトアップが始まった。放庵の詠んだ橋は大きく装いを変えたが、いまでも風の盆を演出する重要な舞台装置の一つであることに変わりはない。歩くたびにたわむ路床を踏めば、哀調を帯びた旋律と囃子がどこかから聞こえてくるような気がして、思わず名歌の一節を口ずさみたくなる。

(1995年とっておきの富山、鶴木さんは新聞記者)

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