40.福江充さん(幕藩体制下における加賀藩と立山衆徒)

立山衆徒は中世から近世初頭にかけ、軍事的要素も備えた宗教者集団として、越中守護職の桃井直常や越中守護代の神保長誠、あるいは越中国主の佐々成政などの武将たちと結びついていた。佐々成政の「ザラ越え」にも関与している。

その後、佐々成政が没落し、新たに加賀・能登・越中を支配した加賀藩初代藩主前田利家は、それまで成政に味方し反抗勢力だった立山衆徒に対し、壊滅させるのではなく懐柔政策をとった。ただしその際、立山衆徒が持つ軍事的要素、すなわち武器を持ち蜂起するような危うい要素の取り除きを図ったものと推測される。1587年、加賀藩前田氏が新川郡を支配すると、翌年、利家は立山衆徒に対し速やかに対応し、各々に100俵の土地を寄進して安心させ、藩の寺社奉行の支配下に治めてしまった。特に芦峅寺衆徒への対応を見ると、1590年、利家はうば堂をはじめとする宗教施設の大がかりな修理を行なっている。さらに1614年には、利家夫人芳春院と加賀藩第二代藩主前田利長夫人玉泉院が芦峅寺中宮寺を参詣し、滞在期間中、うば堂の前に架かる橋に白布を敷き流して布橋を掛け、宗教儀式を行なっている。

加賀藩の立山衆徒へのこうした素早い対応は、近世初頭、江戸幕府が大大名の前田氏に脅威を感じ、隙あらば取り潰しにしようと度々圧力をかけていたこと、そして幕府が加賀藩に干渉し、難癖をつけそうな要素のひとつとして、立山・黒部奥山に関わる軍事・国境問題があったこと、立山衆徒がそれに役立つこと、などによるものである。

加賀藩がこのように立山衆徒を統制したのに対し、一方、江戸幕府の修験道統制はどうだったか。幕府は、1613年に修験道法度を定め、聖護院門跡本山とする天台宗系修験道本山派と、醍醐寺三宝院門跡を本山とする真言宗系修験道当山派を支配下に置いた。次いで、各地の修験をそのいずれかに分属させ、競わせることで力を削ぎながら支配した。また、吉野山・羽黒山・英彦山などの修験集団は、日光輪王寺門跡直属の天台修験として存続させた。

立山・黒部奥山は、中世より、商人や戦国武将が活用してきた信濃・越中間の最短往復道が存在する領域で、加賀藩は、その軍事的重要性を強く認識していたと思われる。そのため、こうした幕府の修験道統制よりも先に、先述のとおり立山衆徒を自藩の支配下に治め、各宗派の本山との関係を一切持たせず、江戸幕府の息がかからないようにした。したがって、立山衆徒は天台宗だが、比叡山や東叡山とは関係のない無本山天台宗と称して活動していくのである。

なお、加賀藩は、立山衆徒が藩に無許可で外部の様々な権力と結びつこうとした場合、芦峅寺宿坊家が藩領国外の檀那場で諸大名やその家臣らと師檀関係を結ぶことなどにはほとんど関心を示していないが、立山衆徒が有力寺社と結びつこうとすると必ずそれを阻止している。こうして立山衆徒は、他の霊山の修験集団のように、各宗派や修験道寺院の本山に帰属しなかったので、山中修行を主体とひない独自路線の宗教活動を展開していくことになった。

また、加賀藩は立山衆徒に対し、軍事に結びつくような修験道の野性的な部分の抑え込みを図ったと考えられ、その代わりに、自藩の国家安泰や、藩主とその家族の無事息災を祈禱する山麓の祈願寺院としての役割を担わせた。そのため、立山衆徒の宗教活動の舞台は、立山山中や山麓の自村に移り、山中を道場とする修験道の峰入りや柴灯護摩などの修行は次第に廃れ、むしろ山麓の芦峅寺や岩峅寺の境内地諸堂での年中行事が極端に増加していった。特に芦峅寺衆徒の間では、諸国の檀那場での廻檀配札など、勧進布教活動が次第に盛んとなった。こうした状況を背景に、立山曼荼羅の絵解き布教の文化も花開いたのである。

(2017年、立山信仰と三禅定)

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