島の倉の初まりはは明治元年(1868)であります。現今の位置(中長柄町)は昔、沼の高とて一面の沼でございました。当時の藩主前田利保公が鷹狩にお出掛になり、御鷹野(現今の西田地方村)に立ち寄りて漸次お運びになる途中、水を飲みたいと仰せられたが、あいにく水が見当たらず、沼のほとりから溢れ出ている鉱泉をお勧めしたところ、非常に良い水ぢゃと仰せられて、なおお帰りの節、お茶の水にするとお持ち帰りになったのが評判になり、旧藩の士族たちが集まって据え風呂を拵えたのが湯の起源となったのであります。
明治元年には据え風呂であったが、あまり狭いために3年頃に小さな小屋が建った。その後、何代も代わり、現今の経営者すなわち島倉の湯の主人は7代目である。建物は総二階に離れ座敷を建て増し、県下では宏大なる鉱泉宿である。これに料理業を兼業し、湯屋・旅館・料理の三業を兼業している。殊に主人中田芳太郎はなかなか負けぬ気性の人で、改良に意を注ぎ、今日では蒸気機関を備え付けて浴場内の設備、市内では屈指の文明式浴場を形造っている。
今日でも一番湯の監督は福澤老人である。一番湯とは朝3時に沸かして始めて入浴する人をいうので、この人がよいといわねば他の人が入ることが出来ないのだ。この頃でも老人連が梅澤町、五番町など遠方から暗い中に出掛けて行くのはこの湯ばかりである。湯賃は昔は5厘で、その後8厘・一銭・一銭2厘・一銭5厘と漸次に上がり、今日は二銭となった。5厘時代は薪や炭をもって代わりに入りに来たものである。この時代はもちろん男女混浴で、風呂屋でずいぶん風儀を乱らかしたものである。当時は四角な桝で、淺いものであった。晩は暗い油心の八軒行燈とて八角の大きなのが吊るされてあった。
島の倉の湯に次いで古いのを並べると、たいていは火災のためかその他の事故によりていずれもその跡が絶えている。今日では諏訪川原通りの湯屋の古宮の湯などであろう。追々と規則が喧しくなり、男女混浴から男女の間板仕切りとなり、次には浴槽の上を少し板を高くした。20年後は流し場までも板仕切りとなし、脱衣場までも全く板で仕切って顔さえ見えないようにしたのは最近のことである。そして今日、富山市の風呂屋は37軒ある。
(明治43年、北陸タイムスの記事から。とやま元祖しらべ)
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