90代女性(滑川)
お国のため一生懸命に働いてくたはれ、子どもたちは何があっても私が守りますから。そう伝えると軍服に身を包んだ夫は安心したような表情を浮かべた。その優しい顔は今でも目に焼き付いている。1937年9月、日中戦争で徴兵され、富山市五福にあった陸軍歩兵第35連隊の前で出征の見送りをした時のことだ。
翌38年5月、夫は中国・蘇州で戦死。最愛の人を失った悲しみは大きかったが、それ以上に残された3歳の長女と1歳の長男と共に生きていくのに必死だった。昼間は田んぼで汗を流し、夜は家でむしろ織り。農閑期は岩瀬港で船の荷下ろしをしたり、土木工事を手伝ったりして生計を立てた。父ちゃんがおらんなったから2人分働いた。休む間なんてなかった。
ラジオはもちろん新聞を買う余裕もなかった。働き詰めの毎日で、日中戦争が太平洋戦争に発展したことも知らなかった。戦争が良いこととも悪いこととも分からんかった。ただ、日本は勝つもんだと信じとった。だから、親戚の家で玉音放送を聞いたときは涙が流れた。
98歳まで畑仕事を続けた。元気に生かしてもらっとるがは、先の人の苦労があったから。そのことを忘れたらあかん。
90代男性(富山市)
日本兵は皆殺される。1945年8月、中国湖南省で日本軍の作戦に携わっていた時、現地の子どもたちに罵倒された。計3度召集されいずれも中国大陸に渡ったが、ここまで反日感情が悪化したことはなかった。1ヶ月ほど前には現地の日本軍の飛行場に軍用機の張り子が並んでいるのを見た。日本はもう戦えないのではないか。疑念はすぐ現実となった。
へき地ににいたため1日遅れで終戦を知った。中隊長から伝達を受けると体の力が一気に抜け、それから怒りがこみ上げてきた。「仲間たちは一体何のために死んでいったのか」
日本を守るため戦うことが忠義の道と固く信じていた。懸命に勉強して入った中学では厳しい軍事訓練を受け、教官からは日本にとって満州がいかに重要かを教えられた。
太平洋戦争が始まった時は、アメリカには勝てないと考えていた。日本には兵器も人も足りないことを、先の日中戦争で身をもって知っていたからだ。ただ、そんな本音を口にすることはなかった。赤紙が来たらありがとうございますと応じ、家のカイニョ(屋敷林)な恭しく日の丸を掲げた。あの頃の日本人は、そういうものだった。
90代男性(高岡市)
気の毒やけど…また来ました。役場の職員は申し訳なさそうな赤紙(召集令状)を差し出したという。自身にとって日中戦争、軍隊の訓練に続く3度目の召集。44年12月、富山歩兵第69連隊として、日本軍の拠点の1つだった南方のトラック島に向かった。島は攻撃を受けなかったものの、物資はほとんど届かず、食料不足が慢性化。ネズミ、カタツムリ…。食べられるものは何でも食べた。栄養失調で命を落とす仲間も多く、ここで死ぬのだろうと覚悟を決めた。
玉音放送は聞いていない。いつ戦争が終わったかも知らない。上官は何も言わず、負けたといううわさだけが広まった。軍旗を燃やし武器を海に沈めた。45年12月、米軍の船が迎えに来た。船中で食事が与えられた。飯ごうの中のご飯は自分も上官も同じ量だった。軍の身分が無くなったのだと分かった。それが戦争が終わるということだった。
常夏の島から戻った日本は真冬だった。夏服を2枚重ねて地下道を歩くと、老若男女さまざまな人がござを敷いて物乞いをしていた。何かちょうだいと話しかけられても、自分も何も持っていなかった。あの日の寒さの記憶は今も消えることはない。
90代男性(魚津)
赤紙が来たのは42年秋、28歳の時。横浜で運転手として働いており、半年前に長女が生まれた。この年になって召集されるとは思わんかった。
マイナス40度以下にもなる寒い満州で、厳しい訓練を受ける日々。便所で長女の写真を眺めることだけが楽しみやった。44年、米軍の本土上陸阻止のため沖縄の伊良部島へ。本土からは食糧の支援はなく、空腹と米軍の攻撃の恐怖に闘い続けた。
サンゴの島で植えたサツマイモなんか大きくならん。むしった草を軍医に食べられるか聞いとった。腹を壊して死んだ仲間もいた。腹が減って眠れんと訴える声は今も忘れられない。
伊良部島は小さな島で、結局、米軍の上陸はなかった。近くの宮古島には空襲が相次ぎ、その光景を呆然と眺めたという。終戦から3ヶ月後に故郷に戻った。迎えの船が来るまでの3か月が3年にも感じ、本当に長かった。
紙一重の差で生き残ったと強く思う。満州に残った仲間は終戦後にシベリアに連行され、多くが亡くなった。宮古島に配属されたら空襲に遭っていただろう。何で負けると分かっとった戦争をやったまったのか。おらぁ、ぼんくらだからよう分からん。でも、その疑問はずっと消えん。
90代女性(富山市)
45年8月2日未明の富山大空襲。忘れようにも忘れられん。子どもを助けたい一念でした。焼夷弾の降る中、2人の娘を連れて逃げた恐怖は今も鮮明に覚えている。
今晩、米軍の飛行機がくるから、神通川の橋の下に行った方がいい。1日夜、夫が仕事先から自転車で帰宅し、それだけ言うと慌ただしく戻った。町内では少し前から富山にもB29がくるとうわさになっていた。
7歳の長女の手を引き、生後間もない次女をおぶって神通川に。河原は既に避難してきた人でいっぱい。ここはだめだと思い、城址公園へ逃げた。公園手前のどぶ川にかかる橋が腐りかけていたため、土手を降りたところで動けなくなり、腰まで水に浸かってじっとしていた。
しばらくすると本当に飛行機がやってきて、焼夷弾をばらまいた。夜空に無数の光が降り、恐怖と裏腹に花火よりきれいだなとぼんやり考えていた。花火はどぶ川の橋の上にも落ちた。
爆弾がやみ、空は白んできた。周りの草むらには亡くなった人が何人も横たわっていた。家も蔵も灰になったが家族はみんな無事だった。夫の言うように逃げて良かった。焼夷弾に当たらんかったんは神様、仏様のおかげです。
あの日の空―とやま戦後70年―(北日本新聞社)より転載
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