48.売薬行商人の思想(風俗 越中売薬)

(前略)まず、その社会的な性格であるが、売薬の階層としての位置づけは、業態・身分・顧客等の点で典型的な中間者的存在であることが認められる。本当は売薬に行商と続けるのはおかしい。なぜなら行商ということであれば、他の種々行商にみられるように商品の販売先が固定していないのが普通である。ところが、売薬にあっては当初の新懸の際はともかく、いったん得意先ができてその商品を委託した後には、各得意先を順序正しく廻って歩くだけである。これではいわば定着商人が品物を届けた後で代金の回収をして歩くのとさほど違いはない。その意味では、売薬行商人は定着商人と純粋商人との中間に位置しているといえる。いってしまえば、店舗商人よりは流動的であるにしろ、現金売買の行商人に比しては余程固定的であり、半行商人が実態であるといっていいのである。そこからして、一方では売薬である自分を商人として自覚するよりは、労働者とみなす感じ方も現れるのである。薬売りは商人でなく労働者でなく、両者である。

売薬の中間的性格は彼らの発生的基盤にもある。というのは、売薬が生まれるについては確かに藩の貧しさがあった。富山は米以外には何の特別な産品があるわけでもなく、神仏・仏閣・物見遊山に適した場所があるわけでもない。しかも町の規模だけは全国の上位クラスの町で、人間が有り余っている以上、原料を輸入して加工販売産業を奨励するより法がなかったのである。そうした経済的基盤の上に更に行商ということになれば、人間の肩にかついでいく以上、できるだけ軽いものでできるだけ需要があって、できるだけ金目になるものをということが条件になる。一番その条件に適ったものが薬ということになったのである。

しかし、総体として富山藩とその領民の貧しさが挙げられるにしろ、もともと売薬を行うには多額の資本を必要とする。従って、言い換えれば、売薬業者は借金したにせよ、必ずしも貧しくはなかったのである。むしろ売薬を中産階級の職業と考える方が妥当であろう。(中略)今でも古い売薬商人には古武士を思わせるようなタイプの人がいるが、江戸時代には道中の危険ということもあったが武士に準じて名字帯刀が許されており、その名残りからしても、戦前行商人達は「売薬は誇り高き職業」としていたのである。(中略)

こうした売薬の中間者的性格からどういう結論が出てくるかであるが、当然のこと、その右にも左にも偏することのできない事情から、保守的、日和見主義的な態度をうむ。いつも安全地帯に隠れていて冒険をするということがなく、たとえ冒険するとしても、それは常に冒険を許す安全圏においてだけでしかない。(中略)

売薬は三百年の長きにわたって続いてきたというが、それはよく主体において生き延びたというものではなく、逆に没主体において生き延びて来たのである。その点、領主自身の生き方とも甚だ似かよっている。外様第一の国「加賀の殿様」は、鼻毛を伸ばした阿呆面で、ひたすら危険を避けて生きてきた。前田はかつて信長に仕え、豊臣の権力下に入り、関ヶ原後は家康に鞍替えした。自己が生き延びるためにはモラルや正義などはどうでもいいのである。常に強いものにつき、その前後の矛盾に悩まないことをもって御家柄としてきた。

支藩である富山藩も同じやり方を見習い、売薬人もまた同じ流儀をもって延命策としてきたのだ。なまじ主体を持っていては却って主体が邪魔になって新しい態勢に即応できないことを知っていた。その意味では営業革命が要求されながら、自らは容易に成し得ない現状の根源は古いのである。

(昭和48年、風俗越中売薬、玉川信明)