(前略)以上、射水郡長 南原繁の仕事を2つ紹介しましたが、この二つの事業に共通する考え方を見てみましょう。南原は「郡にいた頃の回想 その一」でこう書いています。
「わが国は、明治維新以来、近代国家としての日本を形づくるに忙しく、そのために西洋文明を摂り入れ、何よりも自分自身を武装したのであった。それによって…世界のいわゆる五大強国の一つまで押し上げられるに至った。これにより重要なことは、日本は真に自分自身を固めることである。そのためには武力をもって外に拡張することを止め、内に国民大衆の福祉を図るとともに、何よりも欠けている国民の精神的文化を高めることでなければならぬと思われたのであった。これがためには、日本の津々浦々にまで地方の産業がふるい興され、国民大衆が幸福を享けると同時に、国家の自由な公民として、さらに平和な世界的公民としての教養を身につけることが絶対に必要である」
ここに、祖国日本と日本国民を高めたいという南原の真情を見ることができると思います。
(中略)
私が南原の仕事に学ぶ点は、真のリーダーシップということです。この点を二つの側面から述べてみます。
まず、リーダーとしての第一の条件について。南原は射水郡長赴任の途上、地図にない湖を見て、自分のなすべき任務を直感したーこれは問題発見能力と洞察力です。次に、全国の排水事業を視察して回り、技術者の意見を聞くなど周到な調査を行い、自ら筆を執り説得力に満ちた計画書を作ったーつまり企画力と説得力です。さらに、町村長たちに呼びかけて160人から成る治水協議会を組織し、県知事と幾度も交渉し、知事を説得したーつまり行動力です。問題発見能力、洞察力、企画力、説得力、行動力、これらはすべてリーダーに必要な資質です。
射水郡長 南原の仕事に見出すリーダーとしての第二の条件。それは理想の実現としての事業ということです。「人生と世界の意義は、人生の官能的享楽でないことは勿論、必ずしも富や幸福そのものにあるのでもない。同胞の自由と幸福のための配慮と、建設、その理想実現のための不断の努力にあるのである」と考える南原にとって、排水事業は単なる土木事業ではなかった。それは「同胞の自由と幸福のための配慮」という理想を実現するための建設事業でした。また射水郡立農業公民学校もまた、「かような理想、よい意味での極めて野心的な目的を担って生まれた全国にもいまだ類のなかったもので」した。
南原の為した二つの仕事、排水事業も農業公民学校創設も、それ自体大きな意義を持つものですが、これら事業を通して実現しようとした南原の理想を見落としてはいけないと思います。
「同胞の自由と幸福」をもたらそうという理想に裏打ちされない事業は、単なる私利私欲のための事業にすぎない。理想を高く掲げ、それに向かうべき進路を示し、先頭に立って事業に邁進してこそ真の指導者たり得ると思います。射水郡長としての南原の仕事ぶりに、私は真のリーダーシップ、優れた指導者像を見出すのです。
若き郡長 南原繁は、理想を掲げて現実に働きかけ、理想に向かって現実を変革しようとした真のリーダーであったと思います。私は射水郡長時代の南原に、単なる思索の人ではなく、行動の人・南原繁の姿を見る思いがします。そして南原の意思は射水郡の人々に受け継がれ、事業が完遂され、南原の理想が実現しました。
「排水事業と学校設立の二つの事業も、私はただ種子を蒔いたに過ぎない。…ただ一言率直に申し上げていいことは、私の若き日の情熱をここに注いだということである。私は、ただ通りすがりの旅人や、腰かけの役人の心だけは持たなかったつもりである」南原は後年こう語っています。
射水郡長 南原繁の仕事について勉強してみて思うことは、南原の仕事に学ぶことは「単なる過去の回想にとどまらないで、我々の今日の問題に光を」与えてくれるものであるということです。
私は、日本の近代土木史を学ぶ過程で青山士と出会い、冒頭にご紹介した一枚の写真によって南原繁と出会いました。
I wish to leave this world better than I was born.(私はこの世を、私が生まれてきた時よりも、より良くして残したい)
昭和38何4月、青山士の追悼式における南原繁の感話に引かれた言葉です。「青山さんが一高生徒のころ私淑した内村鑑三先生の「求安録」から学んだ句で」、「その生涯を通じて彼を導いたモットウ」でした。
私はこの後も、土木の仕事の先輩である青山士と、私の郷土香川県の先輩であり、かつ第二の故郷富山県の先輩である南原繁の仕事に学んでいきたいと思ってます。
(南原繁と現代、2005年南原繁研究会)
「ちゃべちゃべ」でとやま心を話しましょう