有峰盆地が湖底に沈む昭和32年に歴史文化調査団が入った。その1人に私も加わった。
当時の有峰は高原の秘境という言葉がぴったりと当てはまる土地であった。亀谷川沿いの道は今は有峰へのメイン道路となったが、当時はまだ車が通れる道でなく、国道41号線を茂住・土を迂回して大多和峠を越えねばならなかった。峠からダム工事現場や有峰村へは新道がついたばかりで、ところどころに赤白のHWLのマークがかかっていた。今は湖底に沈んだ有峰の二つ谷、東谷と西谷もはるかに眺められた。宝来島とありきたりの名前に変えられ島となった丸山はまだ山の姿であった。ダム工事を再開したばかりで、東谷から土砂を運ぶ20トントラックが行き来していた。
大正9年に水源涵養林として14000haを県が買い上げ、人々が離散して40年近く過ぎていたが、12戸のうち1戸・西谷の山越家が残っていた。雪で倒壊した建物の埋積でそれと分かるものが西光寺の跡であった。山越家のおじいさんの市太郎さんは、故郷がなつかしく毎年夏は有峰で過ごし、岩魚釣りや家の手入れをしていた。もう1人、野口トメさんもいて「山ブキ」の皮むきををしていた。山越家はネズの割板でふいた屋根で、壁は板壁の落とし込みだった。ネズの屋根は1枚1枚ヨキ(まきわり)で口をあけ、くさびで割った長さ五尺・幅八寸〜一尺もの板だった。構造的には伊勢神宮の棟持柱の変化したうだつ造りというものだった。西光寺跡には法華塔が一基あり、裏に「維時文政第五壬午孟夏吉日、書字沙門本州善了」とあり、経文を数行書いた石も露出していた。そして、六地蔵も淋しげに立っていた。これらは墓地の改葬とともに移されただろうか。
東谷に村の氏神があった。本殿の見世棚に8体の動物の木像が置かれていたということだ。私どもが訪ねたときには宮の痕跡すらなかった。のちに松本民族資料館で「有峰の狛犬」が展示してあるのを発見し、意外な奇遇に驚いた。燕山荘の赤沼千寿氏の寄贈とだけ記してあった。赤沼氏はすでに亡く、狛犬がたどった道を知りたいと心に掛けていた。あるとき赤沼氏の著作の一文に「有峰悲歌」があることを発見した。「大正12年、冬の薬師岳登攀の準備に有峰に上がったときに、故里が忘れ難くこっそりと住んでいた老夫婦にめぐりあい、東谷の社殿にしょんぼりと寄り合う木彫に限りない哀惜を覚えて譲り受けた」というのである。8体の木造は、イノシシが田畑を荒らすのを調伏するために彫られて寄進されたものらしい。高さ約50cm、その面影はシシ、サル、クマ、ヌエらしく、一組あて阿吽の姿となっている。社殿は風雪にさらされ、骨身をけずって野猪を調伏し、その稚拙でいて典雅な姿を今に残している。
10年前、大山町歴史民族資料館の開館にあたり、4体を借り受け、その複製をつくって館の正面に飾った。有峰の遺物はほかにもあるが、この木像ほど有峰の歴史を身をもって味わったものはないのでなかろうか。
(1995年「とっておきの富山」前田さんは大山町歴史民族資料館委員)
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