44.流刑人哀歌(富山の伝説)

越中五箇山は、美濃国烏帽子山を源とする庄川に沿って、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷と5つの谷間に点在した集落である。

この5つの谷間を縫って流れる庄川の右岸には、流刑地があって口留番所が設けられていた。加賀藩が五箇山を流刑地に決めたのは、1690年の5代藩主綱紀の時である。流刑者は罪の軽重によって、重い者はお縮り小屋に閉じ込められて戸外へ出ることを禁じられた。軽い者は平小屋に住み、村内の散策は許されたが、村外へは一歩も足を運ぶことはできなかった。

平小屋に入れられた者の中には武士がいた。村の娘たちの中には、流人というよりどこかあこがれの姿として映った。恋心を芽生えさせた娘もいた。しかし、流刑者との恋は法度として堅く禁じられていたのである。

平村田向の入口に、富山県指定文化財となっている流人小屋が一棟建っている。明和年間に建てられたお縮り小屋を復元したもので藩政時代、田向には三棟あったという。このお縮り小屋は、間口9尺、奥行2間、高さ8尺の板張りで、六畳ほどの広さである。小屋の中には荒むしろが敷かれ、湿っていて暗い。小屋の後ろは石垣となっていて、訪れたときは夏草が茫々と茂っていた。

元禄の頃である。祖山の肝煎の家に、今年17になる奉公娘がいた。よく働く娘であったので、主人夫婦にも気に入られていた。いずれは、どこぞに嫁さの世話でもと思っていたころ、新しい流刑人が村入りして来た。青木治太夫という加賀藩士である。俗に加賀藩遊女事件と喧伝され、馬廻役160石の高崎半九郎を中心として、4人の武士が町人相手にはじめたかくし女郎屋(浅野屋)が公儀の沙汰に触れてのことだった。この事件が、武家諸法度という厳しい掟に触れた背景には、元禄太平に慣れた武士へのいましめと取持ちをした町人の台頭に対する牽制をも含まれていた。即刻、浅野屋はとりつぶしとなり、一命を赦免されたものの4人は越中五箇山流刑と決まった。彼等と関係の深かった町人たちは耳鼻をそがれて追放。浅野屋の19人の遊女たちは能登奥郡へ流刑となった。

肝煎の家の下女である娘には、この新しい流刑人がどんな罪を犯したのかは知らなかった。

あれは、村の春祭りも間近い日のことである。夜ともなると、祭りのための獅子舞のけいこが始まる。笛や太鼓の音が聞こえて来て心の弾む日々だった。

娘は主人のいいつけで、流刑小屋に食膳を運んで行った。これが青木治太夫との初めての出会いであった。娘は青木治太夫を見ると、首をかしげる表情をした。にこっと笑った。

「なにがおかしい」男は言った。娘は顔を赤らめると走り去った。実はこの娘、罪人というのでもっと怖しい顔をした男かと思っていたからだ。青白い端正な顔立ちの若い男だったのは意外であった。

山の狭間の棚田の田植えが終わり、梅雨が来るとじきに夏だった。夏の夕方、男はよく細道を歩いた。ある日、川のほとりを歩いていると、小さな虻が飛び交っていた。歩いていた男は、ふいに人の気配を感じて身をそらした。

「危ない!」娘が叫んだ。男の手をとり駆け出したのである。男は呆気にとられた。娘は荒い息のまま、立ち止まると、「あの虫なぁオロロいうねかい。オロロは人の目ん玉とるさかい、気ィつけてくだはれ」娘は顔を近づけて言った。小麦色の頬にうぶ毛が光っていた。水蜜桃のような娘だと思った。

娘はふいに顔を赤らめて手を離すと言った。オロロというこの小さな虻はとこまでも人を恋い身体につきまとってくる。村の人は山仕事・畑仕事に行くときは腰に火縄をつけて、くゆらし避けるのだ。

「人恋しい虫というのか……」

男は苦く笑った。自嘲するような昏い声の響きだった。

いったい、いつの日、この村里を出ていけるというのか。山肌は重畳と折り重なり、谷は深く取りまいている。この険阻な自然の要害を利用して、藩が軍用焔硝や流刑地を作ったのも頷け、「そして、おれもその1人となった……」

赦免の沙汰を望む気は既に萎えていた。それは金沢からこの地に辿りつくまでに覚悟をしていた。二俣を越え、福光・城端を経て、朴峠を越え平村梨谷を下りた。そこから龍の渡しで祖山に辿り着いた。恐ろしい渡しだった。死ぬかと幾度も思った。とうとうこの地まで来たのかという思いが胸に突き上げた。この籠の渡しは、うしろを重畳と重なる山々にはばまれ、前を庄川の激流にさえぎられた流刑地への唯一の交通機関だった。南北朝時代よりかけられたと言われ、蓮如上人が乗って渡る絵図が残されている。しゃくみょう上人は、この籠の渡しで暗殺されたと伝わっている。

籠の渡しは、4、5本の藤づるをなって作られた綱のことである。藤づるで作ったかごが吊り下げられていた。かごの大きさは大人2人がやっと乗れるくらいで、人の重みと谷あいを吹き抜ける川風の激しさに大きく揺れる。絶壁の下は庄川の急流が渦巻いている。流刑人を渡すとき、両岸の渡し守は藤づるの綱をわざと大きく揺する。流刑人の逃亡を防ぐための見せしめだった。この地獄の渡しは、村人にとっても唯一の交通路だった。庄川の向こう岸に渡るには橋も舟もない。五箇山の人々が橋を架けることをいくら願っても加賀藩は許さなかった。五箇山が軍用焰硝の生産地であったので、みだりに他藩の隠密が入り込まないための配慮であったという。五箇山にはじめて橋がかけられたのは明治8年のことだった。

「オロロにおれの目玉を食わしてやろうか」男は低く呟いた。「あんたはんさ、何をいうがや。そねなこというちゃならんがや」娘は顔色を変えた。むきになった顔だった。「この正面にある山な、こんな話あるの知とる?」娘はそびえ立つ山を指すと、人形山だと言った。春先、残雪の形が2人の女の手を取り交わした姿に似ているので、村人は人形山と呼ぶのだという。

「昔なぁ、おっ母ァが柴を山で刈ってて、木の枝に弾かれてめくらになったがや。娘が2人おってね、いろいろ手当をしたがやれどさっぱりようならんがや。それでね、あの山の頂上の祠におっ母の願掛けしたいと登って行ったがやちゃ。どうやらこうやら頂上まで行ってね、一心に祈ったの。その帰りにね、道に迷ってそのうち雪が降ってきたのやと。とうとう2人の娘はね、雪の中にうずくもったまま死んだがや。それでね、手を繋いだ2人の娘はねに似た雪の山になったがやとい」

男は娘の話に耳を傾けていた。男には老いた母がいた。その母を思う心の余裕はなかった。男は馬廻役20石の藩士だった。仲間とかくし女郎屋を営み、酒と女に惑溺した。夜ごと女を抱いた。この娘は幾つになるのだろうか。男は浅野屋の19人の遊女達を思い浮かべた。たしか能登奥郡外浦へ流刑されたと聞いている。男はその中の1人、お小夜が能登奥郡暮坂村生まれが判明し、同じ五箇山の地に流しなおされたとは知らなかった。よもや、そのお小夜も流刑人でありながら、この地で恋に落ち、庄川の崖から身を投げる運命になろうとは思っても見なかったが。

「おまえの母は……」男は尋ねた。娘は答えなかった。俯いたままだった。「そうか、そうであったか。すまぬことを聞いてしまった」男のいたわるような声が娘の胸に落ちた。

村の肝煎の耳によからぬ噂が入ったのは、それから数ヶ月後のことであった。藩よりお預かりの流刑人と村娘とが密通しているというのだ。しかも、相手の村娘は自分の家の下女である。すでに村人の噂になっていると知り、肝煎は慌てた。いずれは藩の役人の耳にも届くだろう。その前に報告せねばならなかった。おそらくは双方とも、法度を犯した者としてお咎めは覚悟せねばならない。流刑武士はお縮り小屋替えだろうか。

愚かな娘だと思った。気立ても優しくよく働く娘のだった。両親は亡くなっている。自分が親代わりになって嫁に行かすことも考えていた。それなのにと絶句した。あれは妻子がありながら遊女の色香に溺れた男だ。村娘を誑かすなど造作もないことだろう。それも気付かず一途に恋した娘がいじらしかった。できれば、娘の咎は軽くあって欲しかった。

平小屋流刑人青木治太夫が法度を犯した罪状で磔となったのは、それから間もなくであった。御縮り小屋替えではなく死罪となったのは、かつての遊女屋の一件が藩の役人の心証を害したからとも言われた。村娘は、耳と鼻とをそがれ放免となった。その後、この娘は肝煎の家に奉公したまま、一生嫁に行かなかった。青木治太夫との恋を胸深くにおさめて、その菩提を弔って90歳まで長生きしたという。