20.浅岡百合子さん(古いアルバム)

夫は昭和八年生まれなので私より6歳歳上である。私たちは昭和37年に結婚し、現在結婚生活も30年余となる。結婚当初から、あの太平洋戦争については、ほとんど語ろうとしない。私の問いに、「終戦時はどこだった」ー「新保村」、「富山空襲は…」ー「覚中町の家」、「入学は」ー「総曲輪小学校」、「卒業は」ー「岩瀬小学校」、こんな調子である。それ以外の事には「忘れた」「覚えていない」が常であり、私は夫の断片的な言葉を繋ぎ合わせて、彼の幼・少年期を想っていた。だが、あまり深くは考えず年月を経ていたように思う。

太平洋戦争の終結から50年を経た今日、戦後50年をの区切りとして、遺品展、写真展などが方々で企画展示され、そんな会場をめぐったり、小冊子を見ているうち、私は30年あまり前の出来事を思い出した。そして押し入れの古いアルバム入れの中からブルーの一冊を見つけた。表紙には「昭和20年度・総曲輪小学校卒業式、万世古会発会式、1967.3月 於総曲輪小学校」とかかれていた。表紙を開けると、第一頁に次のような文面のハガキの写しが入れてあった。

ーー私たちの願いーー

私たちは三十余歳という、人生では輝かしい年輪を経ている。そんな時、過去の思い出を懐かしむ瞬間が、ともすれば現実として体験化されることがしばしばある。しかし、小学校時代の思い出はあったとしても、何故か一種の不自然さがあったり、片手落ちの友情であったり、まして、一番残酷なのは、語り合って下さる当時の恩師は一人もいないのである。それもそのはず、昭和15年に総曲輪小学校に入学した我々は卒業することなく、昭和28年6月に強制疎開に出合い、敗戦という予期せぬ出来事に、母校愛も忘れ各々が、唯、自分を生かすために、その人生路を切り開いて後、二十余年という歳月が流れて、通ってしまったのである。

6年も在学した学舎に「さようなら」も告げず、恩師の先生方に「ありがとうございました」と一言の挨拶もせず、三々五々に、疎開という一語によって散ってしまったのである。

以来、同級会もなければ同窓会もない。もちろん、敗戦は人の心を置き換えてしまった。暗黒として、明るさのない社会から脱皮できたのも、つい最近のことのように思えてならない。

私たちは総曲輪小学校に、否、当時の先生方に、その成長ぶりをご報告すると同時に、せめて一度だけ「お世話になりました」と口をそろへ、感謝したいのです。

校歌を唄い、蛍の光を歌い、童心にかえり、あまりの過去の出来事ではあるが、おさなき人生における区切りを胸に、おのれの心のふるさとを確認したいのである。

この際、つたなき我々ではあるが、総曲輪小学校同窓会に加盟させていただき、何らかの形で学校の発展に協力したい気持ちでいっぱいなのである。

建国記念日が設けられた今日、それを契機に、忘却の彼方にあった母校愛を、いま再び思い出し、当時を思い出そうではありませんか、友よ来れ、もろ手をあげて来れ、そして恩師とともに、幾多の苦労話に花を咲かせようではありませんか。(T、記)

(中略)

私は今、この文面を胸の熱くなる、痛くなる、居ても立ってもいられない思いで読んだ。初めて読んだようにも思う。

この万世古会が発足し、卒業式が挙行された昭和42年頃は、わが家に長男が生まれて3年目ぐらいであった。夫の妹家族の度々の来訪や、義母の持病の胃潰瘍の症状に一喜一憂の日々で、私はせまい家の中で息をつめていた。また、営業担当の夫の仕事は、高度成長期の真っただ中で、営業マン兼組立作業員兼配送員として日々忙しさに追われていた。私もまた夫と同じ職場で働き、経理事務の仕事に追われ、家事と育児に、精神的にも肉体的にも、戦争の如くに感ぜられた日々であった。夫との会話はほとんどなく、万世古会の事や卒業式に出席したことなども知っていたが、あまり深く考えることもなく、この文面も読んでいなかったか、あるいは理解していなかったのではなかったろうか。当時のわが家は夫婦2人で語り合うことなどはほとんどできず、実際に語ることもなかったから……。

6年近く学び親しんだ学舎、友人、恩師を戦争の名のもとに焼かれ、失い、散々になった昭和21年3月の卒業式は、みんなどこで参加したのであろうか。

(中略)

「今思い出したけど、そういえば戦災直後新保村へ疎開していた時、母親の実家の伯父さんも一緒だった」その伯父はその後まもなく病死したという。「岩瀬にいたのは母方の叔母の家だった」など、ぽつりぽつり語る。

戦災後、金沢市の実家の兄の家へ身を寄せていた祖母が、昭和21年8月亡くなり、その葬儀に出かけた折に乗った、汽車の混雑した様子など、夫は少しずつ思い出して語り出した。どうしてそこにいたのか、それはいつ頃からなのか、どのくらいの間だったのか、確たる記憶のない夫に、私は強いて聞こうとは思わない。戦争中の日々、戦災後の日々、敗戦後の日々、1日1日を生きることに、喰べる事しか考えられなかった時代を思えば、これ以上悲惨な夫の爪痕を呼び起こして何になろう。聞いてはいけないような気がするから……。

私は二人の子供たちに、やがて親となった時に、この万世古会のアルバムを見せてあげたい。父の幼き頃、少年期の「苦労」という二文字だけでは片づけられない日々であったことをせめて知ってもらいたいと思う。夫と私、6歳の年齢の違い、育った環境の違いはあろうが、何よりも大きいのは、戦争に対する記憶とその爪痕であろう。それは、大きく大きく開いて、時としては何十の年の差のようにも思える。いつか夫自身が自ら半世紀以上も前の昔を話す気持ちになったとき、静かに聞ける私でありたいと思う。

(21世紀への遺言、辺見じゅん編より転載)

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