4.芝園小学校の歴史

芝園小学校は、平成17年からの段階的な四校統合を経て、平成20年に新校舎でスタートを切りました。ここでは、統合された四校の歴史を振り返ります。

【総曲輪】

総曲輪小学校は明治6年に富山第六番小学校として創立されました。その後、校舎を富山城の櫓門(全日空ホテルと国際会議場の間の辺り)に移転し、俛焉(べんえん)小学校と改称されます。

俛焉とは、骨身を惜しまず努め励むという意味を持っており、何度かの移転や改称を行い昭和22年に総曲輪小学校と改称された後も俛焉の精神として受け継がれていきます。

さらに、総曲輪小学校に改称後は、明るくいきいきと現代を生きぬく子どもを教育目標に掲げ、感受性の豊かさを重視し、言語、音楽、造形など、表現を通した指導に取り組み、全国教育美術展で何度も受賞を重ねるなどたくさんの子どもたちが活躍の場を広げていきました。また、異学年交流などを通じて主体的に行動できる子どもを育てる教育実践を行なっており、この活動が高く評価され、平成元年度にソニー教育財団から豊かな心を育てる教育実践に取り組んでいる学校に送られるソニー教育賞の優秀賞に総曲輪小学校と俛焉育友会が選定されました。

このように豊かな教育環境でたくさんの子どもたちが学んだ総曲輪小学校があった場所は現在医療福祉健康をテーマにした複合施設総曲輪レガートスクエアとなり幅広い世代に利用されています。

【八人町】

明治6年4月に龍稚小学校、青雲小学校が誕生します。その後、両校は改称→統合→改称を経て、明治34年4月に校舎を新築し、八人町尋常小学校と改称されました。明治43年4月には、恵迪(けいてき)高等小学校男子部を合併し、八人町尋常高等小学校と改称されました。

大正時代には校旗制定。昭和の時代に入ると、校舎を改築しプールやジャングルジムができますが、第二次世界大戦中の空襲で校舎は全焼してしまいます。

戦後は理科教育やよい歯を育てる教育で県内外で高く評価されました。昭和40年には富山市初の鉄筋校舎完成しました。

八人町小学校には、創校から受け継がれる恵迪の精神という言葉があります。恵迪とは教え導くという意味です。八人町小学校の卒業生のノーベル化学賞の田中耕一さんは四年生から六年生の時の担任の先生の理科の授業がきっかけで化学に興味を持ったそうです。

田中さんの功績は八人町小学校の子どもたちだけでなく、富山県のたくさんの子どもたちにも、興味を持ったことを追究することの素晴らしさを教えてくれたように思います。

【安野屋】

昭和2年、総曲輪・愛宕・西田地方・八人町・星井町の5小学校から十三町内の児童を引き継いで創立し、富山市立安野屋尋常高等小学校と称することが決定しました。翌年の昭和3年に新築校舎が完成し盛大に開校式が行われました。

安野屋という地名の由来は、この土地が当時安野屋という商人が所有していた田んぼであったからと言われています。

その後、安野屋国民学校、安野屋小学校と改称を行いました。

安野屋小学校では、明るく・正しく・強くを校訓のもと、昭和45年には科学技術長官賞、48年にはソニー理科教育優秀賞など多くの賞を受賞し、現在もたくさんの卒業生が幅広い分野で活躍しています。

【愛宕】

明治6年2月に婦負郡第一番小学校として寺子屋森田屋を借用し創立されました。

同年12月に履新(りしん)小学校と改称、愛宕神社境内に移転します。履新とは、新しいことを経験しながら学ぶ姿勢を大切にするという願いが込められています。

県内初、文化勲章を受章された国文学者の田中義雄先生は履新小学校時代の卒業生です。

明治44年、愛宕尋常小学校に改称、現在の雄峰高校の場所に移転し、136年の歴史を刻みました。

愛宕っ子は市内でも運動競技が強いことで有名であり、全国大会にまで出場した野球をはじめとして、バスケットボール、バレーボール、相撲、卓球、スキー等の強豪校といわれていました。愛宕小の運動競技が強かったのは、子どもや先生の努力に加えて、父兄や校下あげての地域の協力によるものでした。伝統とともに大切にされてきた言葉に愛宕魂があります。この言葉には、探究する科学の心と、伝統を受け継ぎ未来を切り拓くたくましさを持った子どもになってほしいという願いが込められ、今も地域とともに息づいています。

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