二〇二五年という一年が、今まさに静かに幕を閉じようとしています。富山の街は、家々の軒先に飾られるしめ縄の準備や、市場の活気とは裏腹に、立山から吹き下ろす冷気がすべてを浄化していくような、清冽な静寂に包まれています。
いつからか長い時間をかけて考え続けてきた「公正さ」という重厚なテーマ。それを、この富山の地が教えてくれる「円環」という知恵を借りて、物語を紡ぐように綴ってみたいと思います。
惜別と希望の円環――二〇二五年の暮れに寄せて、公正さへの追憶
一、立山の暮色と、公正さの源流
二〇二五年も、残すところあと数日となりました。
富山の夕暮れ、立山連峰が薄紅色の残光を浴びて、深い群青の空に沈んでいく様を窓から見つめていると、この一年という月日が、決して一直線に過ぎ去ったのではないことに気づかされます。
あの嶺に降り積もった雪が、長い時を経て川を下り、大地を潤し、富山湾の深海へと流れ込み、やがて再び雲となって嶺へと還る。私たちの生きた時間もまた、そうした大きな循環の一部として流れているのではないでしょうか。
私がこの地で静かに考え続けてきたのは、「公正さ」とは何かという問いでした。それは、誰かと誰かを天秤にかけるような「公平」や、単なる「平等」といった、物差しで測れる四角四面の概念ではないように思うのです。時間や空間という制約を大きく超えた視野で眺めたとき、それは必然的に「持続可能性」という言葉に行き着くのではないか。そんなふうに思えてならないのです。
富山という風土は、この循環の理(ことわり)を文字通り「水」を通じて教えてくれます。山に降った雪が解け、里を潤し、海へと流れ、また空へ。この一滴の無駄もない円環を前にしたとき、どこか一箇所でも流れを止めれば、全体が淀み、腐敗し、やがて枯渇してしまうことに気づかされます。
「流れを止めないこと」、そして「出したものが必ず元の場所へ還ること」。この円環が閉じていることこそが、自然が私たちに提示する「公正さ」の本質なのではないでしょうか。それは、ある一点の利益のために全体を犠牲にしないという、宇宙の沈黙の約束のようにも思えるのです。
二、直線という名の暴力と、四角い檻
翻って、私たちが長く生きてきた近代という時代を眺めてみる。それは、ひたすらに「直線」を追い求める時代であったように思います。
西洋から輸入された合理主義という幾何学的な世界観は、自然を直線的に切り裂きました。資源を掘り出し、製品を作り、消費し、そして捨てる。この「ゆりかごから墓場まで」の道のりは、後戻りのできない一方通行の直線です。私たちは、より速く、より遠くへ、より多くを求めて、この直線を無理やり伸ばし続けてきました。
しかし、直線には必ず「終わり」があるはずです。行き止まりがある。その終着点に積み上げられたのが、環境の破壊であり、埋め立て地のゴミの山であり、未来の世代から資源を収奪するという不公正な格差であったのではないでしょうか。
四角四面のビルディング、定規で引いたような道路、効率だけで切り捨てられる時間。それらは一見、整然としていて「正しい」ように見えるかもしれません。しかし、そこには「還る場所」がない。出したものが戻ってこないシステムは、根源的に不公正なのです。私たちは今、その一方通行の檻から脱皮し、東洋が古来持ち続けてきた「円環の哲学」へと立ち返るべき時に来ているのではないか。一年を締めくくるこの時期、そんな問いが静かに胸に去来します。
三、デザイン思考という「共感の円」
現代において「デザイン思考」という言葉が盛んに語られますが、それは単に製品の形を整えることを指すのでしょうか。本来のデザイン思考とは、対象に深く「共感」し、その本質的な課題を見つけ出し、解決の循環を創り出す知恵のことではないかと思うのです。
直線の世界におけるデザインは、いわば「消費を促すための装飾」であったかもしれません。しかし、円環の世界におけるデザインは「循環を維持するための祈り」に近づくのではないでしょうか。
例えば、製品が役目を終えたとき、それがどのように土に還り、あるいは別の価値へと転換されるか。その「終わり」を「始まり」として描き直すこと。富山の先人たちは、厳しい自然と共生するために、無意識のうちにこの高度なデザイン思考を実践してきました。地形を活かした用水路の配置、雪を逃がすための家屋の構造。それらはすべて、自然という大きな円環を乱さないための、控えめで緻密な「公正さ」の形だったようにも思えるのです。
人間が自然の美しさに倣い、その循環を壊さないように配慮すること。これこそが、これからの時代に求められる「美意識」の土台となるはずです。
四、井波と高岡に宿る「手仕事の公正さ」
そのデザイン思考に、温かい命の鼓動を吹き込むのが、この地に息づく「クラフトマンシップ」に他なりません。
南砺の井波へ足を運べば、年越しの静寂を前に「トントン」と心地よい鑿(のみ)の音が響いています。井波彫刻の職人たちが樟(くすのき)や欅(けやき)の巨木と向き合う姿は、一種の神事に似てはいないでしょうか。彼らは木という、かつて生きていた命を、決して単なる「材料」とは呼びません。
職人は、木目に耳を澄ませ、その木が山で過ごした歳月を尊重しながら、一彫りごとに新たな命を吹き込んでいきます。二百本もの鑿を使い分け、欄間の向こう側に風を、瑞雲を、あるいは静寂を彫り出す。その繊細な仕事は、決して効率という直線では測れない価値を宿しているのではないでしょうか。木が土に還るまでの長い時間の中に、人間の手仕事をそっと介入させる。職人が彫り上げた龍や獅子は、数百年という時を経てなお、その家の歴史と共に生き続ける。
また、高岡の地で受け継がれる鋳物や漆器の職人たちの手元にも、同じ真理が宿っているように感じます。金属を溶かし、型に流し込み、何度も漆を塗り重ねる。そこにあるのは、素材の性質を聴き、時の流れを味方につける忍耐強い対話です。
職人が作る道具には、使い手の人生が染み込む「余白」がある。使い込むほどに艶を増し、傷さえも思い出という景色に変わっていく。そのような道具は、果たしてゴミになり得るでしょうか。世代を超えて受け継がれ、時の流れの中で円環を描き続ける。この「素材と時間に対する誠実さ」こそが、人間が物質に対して持ちうる、最も公正な態度ではないかと問い直したくなるのです。
「クラフトマンシップ」とは、効率という名の直線に対する、静かなる抵抗です。ひとつひとつ丁寧に作られたものには、作り手の時間が封じ込められている。その時間を尊重し、慈しみながら使う。その関係性の中にこそ、人間と物質の間の「公正な契約」が成立するのではないでしょうか。
五、富山の薬売りが教える「信頼の循環」
円環の公正さを語る上で、忘れてはならないのが「富山のくすり」の精神です。江戸時代から続く「先用後利(せんようこうり)」という仕組み。まず薬を預け、使った分だけ後で代金をもらう。この、相手の誠実さを信じ切ることから始まる商いは、まさに「信頼の円環」そのものではないでしょうか。
直線的な経済においては、取引はその場で完結し、利潤の最大化が求められます。しかし、富山の薬売りが目指したのは、売った瞬間の利益ではなく、顧客との「生涯にわたる関係の持続」であったはずです。
薬箱という小さな宇宙の中に、家族の健康という願いを詰め、何年も、何十年もかけて家々を巡る。この「巡り」があるからこそ、売り手も買い手も、お互いに対して不誠実ではいられなくなる。相手の健やかさが自分の喜びとなり、次の訪問へと繋がっていく。この温かな「利」の循環こそが、今、経済の分野で「サーキュラーエコノミー」として再発見されているものの本質的な手触りなのではないでしょうか。
公正さとは、奪い合わないことではありません。お互いが大きな循環の一部であることを認め、その流れを止めないように配慮し合うこと。それは、まるでお互いの手を取り合って踊る、大きな輪舞(ロンド)のようなものなのです。
六、食の豊かさという「命の交歓」
そして、この円環の哲学を最も鮮やかに、かつ官能的に教えてくれるのが、富山の「食」です。
私たちは毎日、立山の雪解け水を食べている。そう実感することはありませんか。その水が育てた米があり、その水が流れ込んだ富山湾で育った魚がある。山の滋養が海を潤し、海のプランクトンが魚を育て、その魚を頂いた人間の排泄物がやがてまた大地へと還っていく。
一年の締めくくりに、寒鰤の刺身や熱い粕汁を頂くとき、私たちはその一瞬、海と山の巨大な循環の一部になっているのではないでしょうか。これこそが、食の豊かさの正体であるように思えます。単に贅を尽くすことではなく、「自分が今、大きな命の巡りの中に正しく位置している」という安心感を味わうこと。
季節が巡り、決まった時期に決まった恵みが届く。その約束が守られていることへの感謝。これこそが、食における公正さです。「美味しい」という感情は、実は「この循環は正しい(公正である)」という生命の快哉(かいさい)の声なのかもしれません。
七、富山から世界へ――日本的「円のモデル」の提示
今、世界は持続可能性という切実な課題に直面し、これまでの直線的な経済モデルの限界を感じ始めています。気候変動、資源枯渇、格差の拡大。それらはすべて、直線を無理に伸ばしすぎた結果、円環が壊れてしまった悲鳴のようにも聞こえます。
そこで求められているのは、単なる新しい技術の導入や、数字の操作ではないはずです。私たちの心の在り方、つまり「美意識」そのものの転換ではないでしょうか。
富山が長年育んできた、水と土の循環。井波や高岡の職人が守り続ける、素材との共生。薬売りの「先用後利」が象徴する、信頼のネットワーク。これらはすべて、日本が世界に向けて提示できる、もっとも洗練された「円環モデル」となり得るのではないでしょうか。
四角四面の幾何学で世界を支配しようとするのではなく、円やかな曲線で世界と融け合うこと。自分の利益を直線的に追うのではなく、他者の喜びという曲線を巡って、再び自分に還ってくるのを待つこと。こうした「日本的公正さ」は、物質的な豊かさの先にある、精神的な充足を求める世界中の人々にとって、一条の光となるのではないか。そんな希望を感じずにはいられません。
富山の小さな営みの中にある普遍性は、言語や国境を超えていく。一滴の水が大海へと広がるように、私たちの美意識が世界を包み込み、持続可能な未来を形作る「型」となっていくことを、私は切に願っています。
八、結びに代えて
富山の暮れの夜は、深く静かです。
窓の外には、しんしんと降り積もる雪の重みを感じ、時折、屋根から雪が落ちる鈍い音が響きます。
私たちの人生もまた、ひとつの美しい円環であってほしい。そう願うのは、私だけでしょうか。
受け取った愛を、別のかたちで誰かへと手渡し、その流れを止めずに次へと繋いでいく。その連鎖の中に、自分という一滴の水が混ざり合っている。その自覚こそが、私たちがこの不確かな時代を生き抜くための、唯一の確かな灯火(ともしび)になるのではないか。
二〇二五年という一年を通じて、あなたが考え続けてきた「公正さ」という問い。それは立山の雪のように静かに、しかし確実に、この世界を潤す川となって流れ始めています。その水の行く末を、私もまた、物語の端くれを綴りながら見守っていきたいと思います。
直線的な成長に急かされる日々の中で、ふと立ち止まり、足元の水の流れに思いを馳せる。それだけで、私たちの心は少しだけ、公正な世界へと近づけるのかもしれません。
円環の果てに、また新しい春が来る。それを信じて、この一年を静かに閉じたいと思います。
二〇二六年という年が、あなたにとって、そして世界にとって、より円やかで、豊かな巡りに満ちたものとなりますよう、心よりお祈り申し上げます。
どうぞ、穏やかな良いお年をお迎えください。
二〇二五年 歳末

