私は、何と売薬妻達が密度濃く女の知恵をめぐらして生き継ぎ、生き抜き、生き耐えてきたかに驚いた。留守という運命と、富山という風土は、三百年かかって日本に屹立する女人群を創ったのである。
まず第一に、呑むことに徹し、低い姿勢で油を引き、身の立て場を知っての自在な変化。大切なことは主人が帰ってからと、表面は主人を立て、実は時間をかせいで自分の得になる道をそれもやんわりとつける知恵。
また、言いたいことの反対を言い、それによって秩序と平和を保つ賢さと、はね返りを計算しての功利性。この思想と表裏一体して、どんな理不尽な事態も耐え抜く代わりに、それをやがて自分の栄養に呑み込んで、見えぬ糸で夫の売薬販路を広げていくたくましさ。また、自分がどっちを向けばよいかを知っている妻達は決して不貞はしなかった。
そのためには、大きな家と安定、陰見へのおそれ、売薬の妻としての自負、の三本の縄で自分をくくり、最後まで目標に自分を向かわせた。それはまさに、中国人や韓国人が指摘した底の粘い土俵を割らぬ生きることの連達。驚異の女人群であった。その姿は、翻っては生きながら家霊となって家を守る彼岸の美学となり、不思議な図太さに変わって他力を信じ、不幸を運命と逆に感謝して前進する力ともしたのである。
いや、これは、留守ゆえに世間の泥をかぶり、グチや甘えでは生きられぬと悟った女達が、金・住・性の順位を守り抜いた悲しい自愛の別の姿かもしれない。もっとも裏のウラの世界に通じた妻達は、それゆえの優しい仏心を持っていた。情けは人のためならず。皆、自分に還るものと、張り面でない心底からのものがあった。
また、長い金沢の藩政は、従う事が従わせることであるという弱者に徹した哲学を育てた。このためには常に受けて立つ自己主張と、常に自分の内部にだけ語りかけ、留守ゆえの愚痴が町の噂の金棒引きに利用されぬ用心がなされた。人のプライドを逆に利用される老獪さも、しんねりと笑う陰微も、生きるに必要とあればむしろ積極的に用いたのであった。
富山の言葉に「あべなし」とというのがあるが、売薬の妻達はみな、心締まりで表面は柔らかであった。それに負けん気の強さは、仲間よりもう一つ上手をゆこうと辛抱し粘り根性は根性を生んで、帳主と大きな家を目標に見事に開花した。これは雪と雨が育てた富山根性であった。いやそればかりではない。薬の富山のプライドと祖の血がこの妻達にのりうつっていたことも否めない事実であった。
苦しい時には、自分よりもさらに苦しかった昔の妻達を偲ぶことも大切な売薬の妻を育てる培養器であり、心の生息地でもあった。
売薬の妻達は、みなただ主人を待つだけの幼虫的存在ではなかった。どの家も立派なものが飾ってあるのに欠落感があった。それは、不自然な生活を耐えた女の苦悩の投影とも、また、かけひきを知った女の欠落とも、さらには吹き抜けた女のかんとも感じられるのだった、
しかし、どんなときにも「ゼニ高につくのが人間ですちゃ」と割り切って義理人情のグチをいわず、人を恨まず、自分の不甲斐なさを鞭打つ潔さは、富山売薬だけの前進基地であろう。これには参ってしまった。
最後に、売薬の妻達が例外なく独り言をいう習慣を知ったとき、この人達も女であったと逆に涙ぐむ思いがしたのである。
三百年の歴史と年間百億という利潤が富山県に及ぼす力は大きい。しかし、私はその裏に、売薬の妻という名のもとに仲間の紐帯からはずされることを恐れ、不発のままに終わった性空間を想うのである。いや、その不発のエネルギーこそが別のエネルギーとなって開かせた妖しくも巨大な花が、売薬だったのではなかろうかと…
ともあれ、富山の風土と藩政と宗教は、金・住・性の順位を育て、韓国人も中国人も驚くほどの女連群……別の名、売薬の妻を創ったのであった。
―昭和51年、「巧言幽版・富山の女」より転載―
「ちゃべちゃべ」でとやま心を話しましょう