歌人の宮柊二氏は、富山の女性を新潟の女性と対比して次のように語っている。
「その勤勉性は同じだが、新潟の女性にはじっと耐えつづける性格があり、富山の女性にはそれをはねのけようとする積極性があるように思える」
ここにいわれるそれというのは、何か特定のものを指すのではなく、問題点や障害になるもの一般を指すと考えていい。
このように、勤勉であるがただの勤勉ではないというような複合的な性格が富山女性にはいたるところにみられる。
「富山の雪は重いというが、人間もまた表現や契り方が重いのである。たとえば、萩や熊本の人は郷土のことを語るとき激越な口調になるが、北陸の人は愛着の深さをあらわしながら、その底にやりきれなさを響かせるのである。それが旅人の耳には重さを伴って伝わってくる」評論家の草柳大蔵氏はそう語っている。
氏は土地の人の心が重層化していることを強調しているのである。女をおんなと書かず「をんな」と表現し、やさしさ、たおやかさ、つややかさなどが含まれた女性として評価するのである。
人との契り方にも一種独特のものがあるようで、俳優の永井智雄氏は富山へきて泊まった五日間の体験を次のように語る。
「宿のお嬢さんと僕たちは、時々宿で楽しくおしゃべりをした。一緒にどこへ行くでもなく、ただしゃべってばかりいた。やがて東京へ帰る日がきて、僕は富山駅にかけつけた。彼女はホームでポツンと僕を待っていてくれた。僕たちはまた、とりとめのないおしゃべりをした。汽車がホームにはいってきて、僕がさよならをいうと、彼女の目からあふれるように涙が溢れた。僕は驚いてほんとうに感動した。「なにもなくて…」というようなことばと一緒に、彼女は胸からブローチを引きちぎるようにして、僕の手の中に押し込んだ」
浅く契るということのない富山の女性の一面がよく捉えられている。
富山女性は、理屈では割りきれない人とのつながりのなかから、正しい感情のからくりをよく見抜くと言われる。充分な心の中の反芻があるからであろう。すぐに判断しないで人との契りをゆっくり見極めようとするタイプなのである。厳しい風土だが努力すれば報われる大地に生きてきたからなのかもしれない。「風とともに去りぬ」の女主人公スカーレット・オハラにたとえられよう。彼女はいう。「あぁ、わからない。まず眠ることだわ。そのことは明日になってから考えよう」この言葉は、自分の力を信用して生きてくための女の知恵を考えさせる。富山の女性もそういう生き方を選んでいるように見受けられる。
富山の女性について、まだいろんな方面から描くことができるであろう。そして、掘り下げていけばいくほど、その内側に輝いているさまざまな強さが粒揃いであることに気づくに違いない。
時代の変化につれて富山の女性もそのあらわし方を異にしていくだろうが、バランスのとれたこの深みは得難いものであり、失うことなく次代に受け継がれてほしいものである。
―昭和51年、「巧言幽版・富山の女」より転載―
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