45.越中売薬は誰がはじめたか(能坂利雄さん)

「越中売薬」といえば前田正甫(富山二代藩主)をはじめ、万代浄閑、松井屋源右衛門、八重崎屋源六などの名が反射的に浮かぶ。(中略)

そりよりここで整理して考えておきたいのは、薬草採集と販売元と配置売薬の制度を区別して考えなくてはならない。反魂丹の売り出しによって配置売薬その他が初めて誕生したのか、それとも配置売薬のルートへ反魂丹が乗せられたに過ぎないのかという問題である。前に掲げた正甫や松井屋伝説によると、この人たちによる売薬創始者のような観がある。しかしその問題を解き明かす史料がある。偶然のことからの発見だが、思い出を記しておこう。

昭和30年頃だったか、私ともう故人になった瀬川安信さん(県文化財調査委員)と越中八尾の曳山の組み立てを見学に赴いたことがある。その折八幡社へ立ち寄り、古文書についてたずねた。神官の葛城家の祖母さんが「何もない」と頑強に首をふっていたが、「主人が戦時中に座敷の縁の下へリンゴ箱に何かを入れて始末した」と思い出した。

「ぜひ」と無理に頼みこんで一押しもふた押しもした。やむなく畳をめくることになった。果たせるかな八幡社の前身(江戸期)である山伏修験道場明叶寺に関する古文書がぎっしりとリンゴ箱の中から発見された。最も興味をひいたのは前田正甫の手で修験売薬御差留(停止)の一件を示す古文書だった。

つまり正甫が売薬創始のように巷間誤伝されているが、それよりも早く、すでに他国売薬を行なっている修験グループのあったことを示していた。以後同古文書は拝借願って富山市立博物館で掲示されることとなった。いずれにしろ、明叶寺が32世の祐円の没する正徳元年以前すでに「修験之他国売薬」を行なっていたことが明らかとなった。売薬作業は修験者の行脚による「布施」または「先用後利」の慣習をもって、彼らの商業経済ルートに乗せられたと認めなくてはならない。

少なくとも越中八尾の明叶寺の場合のように、修験者による商品化が先行していたとすれば、越中芦峅寺33坊5社人、また岩峅寺24坊などの立山修験道が、室町末から立山の護符や薬草、硫黄その他を、立山信仰のPR用として、地域割の檀家めぐりを行ったことも忘れてはならない。つまり、修験者のルートがはるかに町方の経済網より先行していた。町方商業の発達は城下町形成以後のもので、元禄の文化爛熟期を遡及することは考えられない。となると、修験者ルートを町方の専業機構の内へ吸収する操作は、二代正甫の治政末期より三代利興の時代にかけて盛行したのではあるまいか。因みに利興の襲封は宝永3(1706)年である。明叶寺文書でもわかるように宝永7年まで寺社支配だったものが、町奉行支配に変わるというのである。それが4年後のことだから、いうまでもなく利興の時代であった。

(昭和60年、北陸史23の謎より)