22.畠山芳子さん(東京から五箇山へ)

「今年から利賀村民になります」。平成11年2月、利賀村で開かれた「利賀そば祭り」。姉妹都市の東京都武蔵野市から招かれた市議会副議長(当時)の畠山芳子さんはあいさつで宣言した。

市議7期目任期満了となるその年でちょうど60歳。公務員ならば定年の年齢だ。第二の人生を始めるには区切りがいいと思った。夫の陸雄さんは出版社を退職後に音楽史を学びにフランスに留学、2人の子どもは独立していた。

50歳を過ぎたころから、老後の生活を考え始めた。東京以外で暮らしたことはなく、自然が豊かな土地にあこがれがあった。

セカンドライフは農業をーー。漠然としていた夢を引退後に実現しようと決めた。「あえて周りの人に話して後に引けないようにした」と笑う。

武蔵野市は東京23区に隣接し、郊外都市として発展。人口密度の高さは全国の市町村の中でも有数で、1キロ四方に12000人が暮らす。

一方、過疎化が進む利賀村の人口密度は6人。1000メートルを超える山々に囲まれ、冬の積雪は3メートル近くになり、幹線道路が不通になることもある。生鮮食品を売るスーパーや精肉店、鮮魚店、ましてやコンビニもない。

畠山さんは東京都文京区出身で「5代続く江戸っ子」だ。武蔵野美術大を卒業し、テレビ番組の制作会社に就職。「オバケのQ太郎」などの人気アニメの作画を手掛けた。昭和46年、32歳で武蔵野市議選に立候補し初当選。以後28年間、都市環境整備や子育ての問題などに取り組んだ。

引退後に田舎暮らしをすると聞いた知人から、いくつもの候補地を紹介された。だが、東京近郊は別荘地のように感じた。とはいえ、大規模な農業は気が引ける。終のすみかと決めたのは、公務で何度も足を運び縁の深い利賀村だった。

利賀村での生活を始めるため、60歳で車の運転免許を取得。農業の担い手を育成する「就農準備校」(本部は東京都北区)にも通った。

平成11年7月7日、畠山さんの第二の人生が始まった。買い取って改修した利賀村の木造2階建ての民家を出発し、農業を教えてくれるよう頼んでいた角藤みよさん(利賀村岩渕)の元へ向かった。角藤さんは、以前東京の畠山さん宅でホームステイをしていた高校生の祖母。高冷地野菜の栽培に取り組んで30年の経験がある農業のベテランだ。「すぐに東京に帰るだろう」と角藤さんは思った。だが、予想に反して畠山さんは畑に通い続け、ホウレンソウの栽培から出荷まで一連の作業を手伝った。移住から1年がたったころ、角藤さんは畠山さんに田んぼの一部を貸し、課題をだした。「よく頑張った。今度は自分で考えて作ってみなさい」

ホウレンソウから赤カブ、キュウリ、コメーー。利賀村に移住した畠山さんが栽培する作物は年々増えていった。自分1人で野菜を作ったのは平成12年。課題として借りた田んぼを畑にし、ハツカダイコン作りに挑戦した。だが、うねは曲がり体はへとへと。利賀の人のようにうまくはいかなかったが、自分が植えた野菜が芽を出しているのを初めて見た時の感動は今も覚えている。

利賀での生活は、畠山さんにとって驚きと楽しみの連続だった。スーパーやコンビニこそないが、豆腐店は3軒もある。雪深く交通の便が悪い五箇山で、効率よくタンパク質を摂取できる豆腐が大事な役割を果たしてきたことの名残りだ。報恩講に招かれ、地元の人と野菜や大豆を主にした精進料理を食べたことも印象深かった。

「ただし、平成17年末から18年初の大雪ではさすがに弱音を吐いてしまった」畠山さんが顔をしかめた。積雪は多い時には4m。自宅は雪に覆われて窓から光が入らず昼夜の区別もつかない。停電する日もあり、隣の家に電話して不安をまぎらせた。

大雪に戸惑う畠山さんを近所の人が励ました。「昔はもっとひどかった。雪はいつまでも降らないし、春は必ず来る」

やがて雪解けの季節が訪れ、山菜採り山に入る村の人々は、お神酒を山に注ぐと聞いた。深い雪の中で長年暮らしてきた利賀の人々のたくましさと優しさ、自然への畏敬の念を知った。

「都会では失われた日本人の暮らしの原点が利賀にある」と畠山さんは考えるようになった。移り住んで8年。最近は近所の人から「ずいぶん利賀のおっかちゃんらしくなった」と言われるようになった。畠山さんにとってうれしい言葉だ。

畠山さんは農業だけでなく、利賀中学校で「心の教室相談員」を務めている。年に90日間同校に通い、生徒の悩み相談に乗る。授業で講師も務め、地方自治の仕組みについて市議の経験を交えて話す。

利賀村には毎年秋、武蔵野市の小学生約100人が一週間の民泊と自然体験に訪れる。同市が行っている「セカンドスクール」という交流事業の一つで、畠山さんが市議時代から特に力を入れて進めてきた。

宿泊先の民宿で、畠山さんは子どもたちに利賀の自然や文化を語る。自分が借りている田んぼを解放して一緒に稲刈りを体験する。

団塊の世代の大量退職時代の始まりを前に最近、「定年帰農」を考えている知人らの相談に乗る機会も増えた。()都会と山村の両方を知っている自分が架け橋にならなくちゃ」。畠山さんの言葉が弾んだ。

(2007年、越中流より転載)

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