21.川渕清さん(さまざまな桜)

私が小学校の入学前、5,6歳の頃だったと思います。父に自転車に乗せてもらい、高岡古城公園へ、満開の桜を見に連れて行ってもらった記憶がうろ覚えながらあります。

当時の私はいまだ「花よりだんご」の頃で、公園内の小竹薮という広場に立ち並ぶ店の一軒で、餅菓子のようなものを買ってもらい、それが大変においしかったことを覚えています。

花見の季節になると、向野本町の自宅まで客寄せのレコードが賑やかに聞こえて来ました。公園から私の家まで直線で約8kmほどあったと思います。高岡古城公園の森が私の家から見え、その森が4月になると桜色になりました。じきに満開だなあと思い、風の向きによっては花見客のざわめきが聞こえて来たものです。

昭和10年、私は成美町の成美尋常小学校に入学しました。2.26事件が起きる前年のことで、戦争の気配が濃くなってきた時期です。入学して読み方の授業時間に「サイタ サイタ サクラが サイタ」を習いました。確かそのあとに「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」があったように記憶しています。

この成美尋常小学校前から一直線で2kmほど歩くと、二代藩主前田利長公が築城された高岡城跡の「利長公隠居城」の中の島の入口があります。先生に引率され「たいこ橋」を渡ってニノ丸跡へ花見見物に行ったものです。学校へ帰ると、さっそく図面の時間に花見をして来た絵を描くようにと先生に言われ、なかなか難しくて困りました。

昔は高岡駅から本丸広場までの道を「桜馬場通り」と呼びました。桜並木が続き、枝ぶりの良いそれは立派なものでした。その桜も戦後は時代の変化と共に道路が拡張され、自動車の排気ガスなどで枯れてしまい、今では面影もありません。

桜といえば、私は初めて設立した会社に「桜燃料工業所」と名付けました。昭和23年8月31日に登記し、父は無限責任者に、兄には有限責任者になってもらいました。私は19歳の未成年でしたので、社長にも役員にもなれなかったのです。しかし、仕事の実際上の責任者として1番に責任が重く、生きるも死ぬも自分で頑張って行かねばならぬと決意したものです。まずは仕事場の点検から始まり、いかに少数人員で生産高を上げるか、利は元にありで木炭粉の原料をいかに安く仕入れるかを考え、足で訪ねて木炭の生産地へ行きました。安く買い付けるため、利賀村や能登方面まで足を延ばしたものです。

能登方面での買い付けの場合は、氷見漁港へ荷上げしてもらい、原料を確保しました。販路は幸いにも京都の従兄弟が西村燃料問屋を紹介してくれ、働く人は近所の気心の分かった人をお願いしました。

資本金は農業会より借り入れし、一応は段取りができましたが、実地に炭団の生産に入ってみると思いもかけなかった事が起きたりしたものです。その後、加工燃料協同組合に入って色々と指導してもらったり、また組合の事務員の方々にも現場を見てもらい、教えを受けて大変に勉強になりました。何事も前向きで頑張るしかないと思いましたが、利益があがれば納税し、赤字を出せば先行きが心配になり、1日とて心の休まる事がありません。とうとう1人ではどうにもならず、昭和25年、21歳のとき、まだ若いとは思いましたが20歳の前花節子と見合いし結婚しました。家内は私と一緒に朝から晩まで真っ黒になって働いてくれました。

翌年の昭和26年4月頃、古城公園で「高岡博」が開催されました。従業員の慰安をかねて花見に行った折、盃を忘れて宴会ができず困ってしまいました。市街まで買いに行くつもりで1人で歩いてましたら、素焼きの盃を並べて売っています。これ幸いと15個ほど買いました。すると「絵か字を書いて下さい」と言われます。訳が分からずよく聞くと、呉須という絵の具で焼き物に使い、これで書くと消えないのだとの事です。初めて素焼きを知り、盃に社名の「桜燃料工業所」にちなみ「さくら」とひら仮名で書いて焼いてもらいました。作品は小さいので、15分ほどで焼き上がりました。

従業員が待っているので急いで持って行きますと、大変に喜んでくれたので、記念に一個ずつ持って帰ってもらいました。

 お花見に盃を忘れて素焼き知る

一句できたものです。しかし、後に学校教材用に楽焼きを焼くようになるとは夢にも思いませんでした。昭和30年、社名を合資会社「川渕商店」に変更し、翌年から美術図工教材として工作粘土製造の販売を始めるようになったからです。

今日になって振り返ると、私の人生には桜にちなんで幼い時父親に連れられての花見、小学校一年生のときの花見や教科書、社名、楽焼きの盃など、さまざまな桜が思い出されます。

花には桜木、人は武士という言葉がありますが、昔は日本人の魂を桜にたとえ、見事に咲く花の美しさ、散りぎわの潔さがしきりに称えられたものです。桜が国花であることも知りました。

私は小杉町の会社の角に八重桜を一本持っています。花見も終わった頃に満開に咲くので大切にしていましたが、昨年の秋に少しの油断から防除が遅れて虫に葉を食べられ、良い花が咲かなかったのです。2度と同じ失敗を繰り返さぬように気を付けています。

この八重桜も父親から根分けしてもらって来たものです。私の今日あるのは、父が常に良き指導を口でなく態度で示してくれたことです。何事にしても子を信じきって、私の思いの通りにさせてもらった事です。

母親は少しうるさい方で、いつも心配係をしてくれました。炭団を作っていると傍へ来て「それ、売れるのか」と心配のあまりに聞きに来ました。「今に冬が来たら、全部売り尽くして見せます」私がきっぱり言い切ると、少し安心した顔になりました。

母は昭和38年に78歳で、父は昭和48年に94歳で亡くなりました。私は平成8年に67歳になりましたが、今日まで身体を動かすことが好きで、元気に働いて来れたことを喜んでおります。田が一反、畑が500坪ほどあり、野菜やハーブを植えたりするのも楽しみです。会社も息子が受け継ぎ、今後とも立派にやっていってくれると確信しております。

(辺見じゅん編、21世紀への遺言より転載)

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