富山の人は口下手です。自分の率直な気持ちをうまく伝えられない。旅人に「いいとこないちゃー」と笑い、年上の人にちょっとした不満も伝えられない。本来不愉快なはずの我慢を美徳にしてしまうほど語らない行為を価値に昇華し普遍的なものとして受け止めてきました。
だけど、我慢すること・耐え忍ぶことが個人の自由を阻害してきたのは間違いなくて、正直に生きる人にとっては閉塞感さか感じられない。私個人も若い頃は「しがらみから逃げたい」の一心で東京の大学に行くことにしました。
東京に行ってみると、人の数はものすごく多いのですが、価値観が180度違っていて、集団優先から個人優先の世界でした。皆んなで一緒に少しずつ我慢するよりも、それぞれ自由に違うものを。同世代でもそれが当たり前だったことに大きなカルチャーショックを受けたものです。
田舎をムラ社会とそしる向きもありますが、それはそれで昔から武家社会や農村伝統社会や仏教の世界観では皆んなが一致協力して共通のヒエラルキー認識の中で生きてきたので、個人よりも集団のマターが優先するのは当たり前のことでした。
個人主義は欧米から始まって、近現代に日本に輸入され、都会から浸透していきました。時代くだって最近のスマホの登場で1人一台となると、さらに家族それぞれの価値観の違いも際立たせるようになりました。
1973年に富山で生まれた団塊Jr世代の私は、小さい頃は集団主義の価値観で教育され、今では個人主義の価値観で子ども達と接しています。最近の学校の先生達が生徒達とのコミュニケーションで悩んでいるのも無理からぬことだと思います。
富山で美徳にされてきた「語らないこと」の美学は共通価値で生きる集団を前提にしているので、今となっては弊害しか生み出さないように思います。それぞれの違いや多様性を前提とする社会では、自分のことを語ること、それも良好な関係を維持しつつコミュニケーションを取ること、が大切になりますが、これは異文化体験を重ねた上でないとスキルとして身につかないようにも思います。
語ることは一方通行ではなく、相互交流がコミュニケーションのキモの部分。小さい頃から異文化体験や違うもの・新しいものへの好奇心を育んでいくことが大切です。