金剛堂山に行ってみたら良い意味で裏切りの連続だった

NEW
Screenshot

金剛堂山。その名を知りながら、これまで一度も足を踏み入れたことのない山であった。富山市に暮らす者にとって山といえば、それは立山連峰、すなわち北アルプスの峻厳なる山塊を指すのが常である。しかし、この地や富山の呉西に深く根を下ろした人々は、幼少の頃よりこの金剛堂山に親しんできたという。富山市暮らしの私はこの山のことを深くは知らなかった。五十二歳にして、ようやくその頂きを目指すこととなったのは、来月に控えた剱岳クラシックルートに臨むための準備という、ささやかな動機からに過ぎない。

長年使い込んだ登山靴がその役目を終え、新しい靴を履き、その感触を確かめるように一歩を踏み出す。下りの衝撃を和らげるというその靴は、これから始まる道のりの伴侶となるであろう。

富山という土地は、三方を山に囲まれ、北の一方のみが深く蒼い海へと開かれている。地図の上では閉鎖的とも映るこの地形が、実は比類なき自然への扉となっていることに、私は思い至る。標高三千メートルの高峰から水深千メートルの深海まで、これほど劇的な高低差を抱く土地は稀であろう。その自然は、時に荒々しい相貌で人を拒むが、平穏な時には、測り知れぬ豊かさをもって人々を育んできた。そして現代、人の営みが都市に稠密になるほど、魂は原初の風景を希求するかのようだ。経済の合理性を追い求めた果てに、人は自らが作り出した喧騒から逃れ、週末のわずかな時間に、傷ついた心を癒すべく自然の懐へと向かう。この地では、人の手が加えられぬむき出しの自然が、車で一時間ほどの距離に厳然と存在している。それは、望外の幸運と言わねばなるまい。

正直なところ、私はこの金剛堂山を侮っていた。標高千六百メートル余、さして高い山ではない。しかし、登り始めてすぐに私は息を呑んだ。蜩の声の響き渡るブナの原生林である。これほど豊饒な、深々と息づくようなブナの森が、この地に広がっていたとは。県内では美女平の南、鍬崎山などにもブナ林はあるが、ここのそれは規模において遙かに凌駕しているように思われた。そして不思議なことに、登るにつれて木々はますますその幹を太くし、巨木となって天を衝く。森や蜩が、その深奥へと人を誘うかのようであった。

登山口から三キロほども続いたであろうか、そのブナ林を抜けると、やがて稜線が姿を現す。この山には、前金剛、中金剛、奥金剛と、三つの頂がある。なかでも前金剛は広く平坦な地形で、眺望も開けているためか、いくつかの碑が風雪に耐えて立っていた。あいにくその日は霧が深く、期待した立山連峰や白山の姿を望むことは叶わなかったが、その白い帳が、かえって思索を深くさせた。

私は、意識して歩を速めた。奥金剛まで三時間、下りはおよそその半分。しかし、急ぐ足が踏みしめる道の傍らには、ブナの巨木が静かに立ち、稜線には高山の草花が可憐に咲いている。このような光景が、これほど身近にあったという事実に、私は静かな感動を覚えたのである。

道。
人が通った跡が、道になる。そして、その道をまた人が通る。その幾万、幾億の踏み跡が、固く確かな道となって定着してゆく。この登山道もまた、山を管理する人々の労苦があってこそであろうが、その根源には、安全な場所を選び、歩き続けた無数の人々の営みがある。それは何百年、あるいは何千年にもわたる歴史の重みなのではなかろうか。

ふと、古のまちの街道を思った。北陸道、東海道。それらの道もまた、人々の往来が作り出したものである。参勤交代の列が通り、宿場町が生まれ、商いが興り、やがて町そのものが歴史となる。そう考えると、まちづくりとは、究極的には道づくりに他ならないのではないか。車が行き交う車道ではない。人が、自らの足で歩むための道である。

金剛堂山の道を踏みしめながら、私はそんなことを考えていた。霧の中に続くその道もまた、実に良き道であった。

コメント